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T君の道草

毎月10日・25日発行

タクシー日本新聞社

編集長の道草

田中一村に出会う旅(4-1)

 本稿(2-1)で、「中央画壇を離れた田中一村が、なぜ奄美大島を終の棲家として自身の画業を極めようとしたのか。温暖な地ということであれば高知県でも鹿児島県でも沖縄でも良かったのではないか。なぜ奄美大島なのか、そのことを自分なりに探ろうというのが、田中一村の作品に触れることとは別に旅のもう一つの目的であった。後述するが、なぜ奄美大島でなければならなかったのか、その訳を自分なりに納得できたのは、旅の大きな収穫となった」と記述した。
 そろそろ本題に入らなければならないのだが、もう少し「みち草」のみち草? にお付き合いいただく。田中一村は、昭和30年に初めて四国や九州にスケッチ旅行に出かけた。さらに種子島や吐喝喇列島まで足を伸ばし、南国の自然に魅了されたという。その同じ昭和30年に「純文学の極北」と謳われた作家の島尾敏雄が家族をともない奄美大島に移り住んでいる。だからといって、そこに田中一村と島尾敏雄を結ぶ接点は何も無い。
 あるとすれば、島尾敏雄は昭和30年から昭和50年までの20年間を奄美大島で暮らし、田中一村は昭和33年に奄美大島に転居し亡くなる昭和52年までの19年間をともに名瀬市内で暮らしたことぐらいであろう。つまり昭和33年から昭和50年までの17年間、島尾敏雄と田中一村はともに同じ名瀬の空気を吸っていたというわけだ。その島尾敏雄の思想や過ぎ越し方に、田中一村が奄美大島を終の棲家に決めるにいたった心象風景のようなものを感じるのであった。そのキーワードは、島尾敏雄が提唱した「ヤポネシア」思想である。
 
プロフィ-ル
島尾敏雄(しまお・としお)
1917年神奈川県県横浜市生まれ。九州大学を繰り上げ卒業し、海軍予備兵となる。1944年(昭和19年)27歳、海軍特別攻撃隊第18震洋隊島尾部隊(隊員183名)の指揮官となり、奄美群島加計呂麻島に赴任、海軍中尉。1945年現地で大平文一郎と知り合い、中国関係の書物を借り親交を深める。同年8月13日に「特攻戦出撃用意」の命令が下ったが、発進の命令が出ないままに終戦を迎える。1946年大平文一郎の娘ミホと結婚。神戸で新婚生活をスタート。1948年長男・伸三誕生。1950年「出弧島記」により第1回戦後文学賞受賞。長女・マヤ誕生。神戸市外国語大学助教授。1955年妻ミホ病気治療のため千葉県佐倉市、東京都内、千葉県市川市などと居を移して10月に奄美大島の名瀬に転居。1958年鹿児島県立図書館奄美分館の館長に就任。1975年妻ミホが「海辺の生と死」により第15回田村俊子賞と南日本文学賞を受賞。1978年「死の棘」で第10回日本文学大賞を受賞。1986年11月書庫で資料整理中に倒れ、2日後に出血性脳梗塞のために死去。69歳。
(写真解説=2005年12月16日奄美訪問2日目、名瀬市内の飲食店「鳥しん」で昼食、メニューはご存知名物の鶏飯。店主のお父さんが飼育しているこだわりの地鶏を使用。マイウ~!)
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