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おもしろくてお役にたつタクシー専門情報紙

T君の道草

毎月10日・25日発行

タクシー日本新聞社

編集長の道草

連載特集:日本交通の栄光と挫折・川鍋一朗研究 No.4

日本交通王国の創業者はヒヨッコだった
梁瀬自動車の見習い運転手から羽ばたく

【タクシージャパン No.129号(09.9.10日号)より転載】

前回は、川鍋一朗氏が会社入りする二年も前から、会社は黒字を計上していたことを明らかにした。氏が利益の上がる会社にしたのではなく、利益の上がる会社に氏が入ったのであった。その会社の礎は、創業者の秋蔵氏が築き上げたもので、秋蔵氏あっての今日の氏であり日本交通である、と論じた。

また、氏は社長就任後に社訓を策定し、「エクセレントカンパニー宣言」を行なったことも紹介した。氏のいうエクセレントカンパニーの具現者は、他ならぬ秋蔵氏である。換言すれば、敬愛してやまぬ秋蔵氏の築き上げた日本交通王国の再興を、宣言しているのである。

エクセレントカンパニー実現のためには、越えなければならない幾多のハードルがある。その幾多のハードルをクリアー出来た時に初めて、氏がエクセレントな経営者だと評価されるだろう。

そのために克服しなければならないハードルとは何か? それは稿を改めるとして、エクセレントカンパニーの具現者である秋蔵氏とは、いかなる人物だったのかに触れなければならない。本稿では、秋蔵氏の出自から自動車人生の出発点である梁瀬自動車商会に運転手として入社し、いよいよ自動車人生のスタートを切るところまでを振り返る。(文責=高橋正信)


●九人兄弟の五番目
秋蔵氏は、明治三十二年八月に埼玉県宮原村(現さいたま市)にて父川鍋熊太郎、母たよとの間で九人兄弟の五番目として生まれた。父親は徒弟制度の大工修行を済ませたが、大工稼業では収入が少なく、大宮駅近くの機関車や列車をつくる国鉄大宮工機部の工員となった。

酒も飲まず、煙草も嗜まず、真面目一筋の仕事人間で堅物だった父親は、秋蔵氏が学校にあがるころには、職場長になっていた。しかし、職場長とはいえ月給は二十円ぐらいであった。いまの物価水準との単純比較は出来ないが、大体二十五万円前後ぐらいの価値があったのではないかと考えられる。

貧乏の子沢山。これで九人の子供を含めた十一人の大家族を切り盛りしなければならないのは、一苦労である。台所と湯殿を除くと部屋が二つしかなく、小さい子供たちは三人で一つの寝床に固まって寝るような、かやぶき屋根の粗末な住居だった。父親と母親との「克己、倹約がどうしても必要なのであった」と芥川賞作家の小田嶽夫氏が著した「くるま人生 川鍋秋蔵」(一九六二年四月(株)アルプス発行、二百二十二ページ)に詳しい。

 父親は小学校二年まで、母親は「女に読み書きは要らない」という時代で無学だったことから、秋蔵氏には高等小学校(当時は尋常小学六年、高等小学二年)までやってやろうと、母親は睡眠時間を削り、家計を節約し貧乏に耐えながら八年間の教育を受けさせた。母親の人と知れない苦労に気付くと、秋蔵氏は不憫でたまらなくなり、「大きくなったら何とか母を楽にさせてやりたい。立派な瓦屋根の家に住まわせてやりたい」と小さな胸を痛めるのであった。

●ヒヨッコになった!
高等小学校を卒業した秋蔵氏は、父親と同じ国鉄大宮工機部で働くことになった。このころ工機部で働くものは約三千人おり、大宮近在の農家の次男、三男はこぞって工機部に就職するのであった。秋蔵氏も九人兄弟で男四人兄弟の末弟ということもあって、特別の思慮の無いままに工機部に入るのだった。

当時、「工員」という言葉が無く、それに当たる言葉が「職工」であった。これを地元の宮原村の百姓がもじって、「ヒヨッコ」という言葉が出来て、少年職工を茶化してそう呼んだという。

ヒヨッコは、工機部にある付属工業学校(四か年修業)に入り、午前中授業で午後から仕事だったが、「月給をもらいながら勉強が出来る」と両道に大いに励んだ。そして歳月が三年、四年と経過していく中で、秋蔵氏は、①個人の能力と関係なく、学歴というものが絶対の力を持っている。大学の理工科、あるいは工学部を出たものは、経験も浅く、技術も十分でないのに、じきに幹部級にのし上がる②(学歴のないものは)よくいって職場長になるのが関の山。それも五十五歳になれば定年退職しなくてはならない③技能の点でも、頭脳の点でも、勤勉さの点でも、めったに人に引けを取らない自信がある。それだのに登りつめる絶頂が職場長だとあっては幻滅だ―と「立派な技士になって外国に派遣されたい」という入社当時の夢と希望は、次第に崩れていった。

大宮工機部に入って六年目、いよいよヒヨッコが羽ばたき巣立ちの時を迎える。秋蔵氏、二十歳の春だった。

●百二十円を懐に上京
秋蔵氏は、両親から六か月間の生活費としてもらった百二十円を懐に上京。四谷見付付近の知人宅に身を寄せるのだった。最初は東京地図を頼りにあちらこちらを見て歩き、人間の多さや東京の大きさに驚かされた。そして一通り東京の街の知識も頭に入ると、就職活動を開始するのであった。
つてを頼り、人にも会い、会社にも顔を出し、新聞の求人欄に目を皿のようにしてみたりして、就職口を求めたが、高等小学校卒の学歴と年齢(二十歳)がネックでどうにもならなかった。まして国鉄の大宮工機部での経験は、なんの足しにもならなかった。秋蔵氏はあせった。半年分の生活費があるのだから焦らないで就職活動を続ければいいものを、初めて世の中に出て、いきなり壁にぶつかったのだから無理はなかった。

前述の「くるま人生 川鍋秋蔵」によると次のような記述がある。
「彼が日本橋区(中央区)の呉服橋のそばを通りかかると、『梁瀬自動車商会』(梁瀬自動車株式会社の前身)の看板が目についた。大きなガレージがあって、自動車がたくさんおさめられていた。(略)それから彼はつかつかと中へ入り、自動車の掃除をしている運転手らしい男をつかまえ、『運転手になりたいんですが、使っていただけないでしょうか?』と言った」

●自動車の申し子?
あたかもそれは偶然に通りかかったかのような記述になっているが、実際は、秋蔵氏がわざわざ訪問したと考えられる。それは、二十七歳で夭逝した次兄が東京へ出て、自動車の運転手になっていたこと、そして自動車の運転手は俸給が当時としては飛びぬけて良かったことを秋蔵氏は承知していたことによる。

立派な会社に入って、ゆくゆくは実業人になりたいという夢は、「いい会社の社員になれないなら、仕方がない。運転手になってみるのも一つの術か」と気を取り直して軌道修正したのは、自然の成り行きだった。

履歴書・戸籍謄本・学校の卒業証明書など、必要書類を整えて提出した後に、晴れて採用されるのであった。両親には大志を抱いて上京していた関係で、「いつまでも運転手をしようというわけではないのだが、ひとまずここへ落ち着きたい」といって納得してもらう。
それ以上に秋蔵氏が生まれた明治三十二年は、横浜在住のアメリカ人がアメリカ製電気式三輪自動車を持ってきており、日本へ初めて自動車がお目見えした記念すべき年であった。その後の自動車発展史が、そのまま秋蔵氏の自分発展史と軌を一にしていくのを見るにつけ、故秋蔵氏は自動車の申し子であったのだと納得させられる。

秋蔵氏にとっては、「いつまでも運転手をやっているつもりはない。立派な会社に入れないのなら、立派な会社を自分でつくって、そして実業人になる」と心に決するものがあったことを、その後のくるま人生が物語っている。

●六か月で運転手へ

秋蔵氏が梁瀬自動車商会に入社したのは、大正八年。すでに全国で乗用車は五千台を超える普及ぶりを示していた。芝区(現港区)新桜田町の某家に間借りしながら、梁瀬自動車商会に通勤するのだった。当時は、自動車には必ず運転手のほかに助手が乗っていて、運転手は運転だけ、あとはすべて助手がフォローした。そして運転の仕方などは誰も教えてくれないために、見よう見まねで学びとっていかねばならなかった。

秋蔵氏は、呑み込みが早く手も器用だったが、梁瀬自動車商会は六か月が過ぎるまで運転手にさせなかった。それでも他の助手連中に比べては早い方だった。当時の運転手の免状は、至極簡単だったという。ビュイックの車に乗って、皇居前の広場をひと回りして見せれば、検査が終了したとか。ともかく目出度く運転手の仲間入り果たし、くるま人生のスタートを切るのだった。

まだ、自動車が珍しい時代で、自動車を運転する運転手はハイカラな職業として、市井の人々の羨望の的になっていた。当時、上流階級の女性と浮名を流す者やお酒と結婚したような、飲んだくれ者の多い運転手仲間の中で、秋蔵氏は一線を画し、酒も飲まずに仕事に精励したのは言うまでもない。それからわずか二か月で、大きな転機を迎えるのであった。

●川崎造船所へ移籍

神戸に本社を置く川崎造船所東京出張所に、自動車が一台売れた。その時、川崎造船所からの条件が、信用のおける運転手を一人つけてくれるように、というもの。そこで梁瀬自動車商会では、勤務態度良好な秋蔵氏を社に置きたい考えがあったが、上顧客(じょうとくい)の信用を得ることも大切、との判断で秋蔵氏の移籍を決めるのだった。

千代田区にあった日本郵船ビル内の川崎造船所東京出張所へ通う身となった秋蔵氏は、社長付運転手という栄えある役目につくのである。このことが、後年の実業人へのステップアップに計り知れない影響を与えることになるとは、もちろん知る由もなかった。

 秋蔵氏が担当したのは、川崎造船所社長の松方幸次郎である。父親は、明治時代に総理大臣を二度、大蔵大臣を七度務めたのちに元老になった松方正義である。松方幸次郎は正義の十三男六女の第三男であった。東京帝国大学を中退し、アメリカのエール大学、フランスのソルボンヌ大学に学んだ。

 もちろん松方幸次郎は実業家として大を為すのだが、それよりも今日、「松方コレクション」の人として名をはせている。松方コレクションは周知のとおり、ヨーロッパの名だたる絵画や彫刻のほか、日本の江戸時代の浮世絵などの厖大な美術品の蒐集である。上野公園内の「国立西洋美術館」は、今から五十年前に戦後フランス政府によって接収されていた松方コレクションが日本に返還されるのを機に、このコレクションを収蔵するために近代建築の三大巨匠の一人であるフランスの建築家ル・コルビュジェの基本設計により、建設されたものである。

オーギュスト・ロダンの「考える人」やクロード・モネの「睡蓮」、ドラクロワ、クールベ、ミレー、マネ、ルノワール、セザンヌ、ゴッホなどなどの作品群が松方コレクションに名を連ねる。国立西洋美術館の建物が建設後五十年ということを記念して、この美術館を世界遺産にしようというキャンペーンが目下、有識者らで展開されている。

●独立への時宜を得る

秋蔵氏が川崎造船所に移籍したとき、松方幸次郎は五十五歳だった。ちょうど松方コレクションに着手しはじめる頃にあたっていた。松方幸次郎と交流があった美術史家の八代幸雄は、松方幸次郎から直接聞いた話を、次のように文章に残している。

 「自分は第一次の世界大戦のために、自分がやっている川崎造船所が非常に好景気で、私が自由に使える金が三千万円できた。私は、それだけ油絵を買って帰って、日本のために立派なコレクションを作ってやりたい」

当時の三千万円は、いまの金に換算すると約三千億円に充当する、莫大の金額であった。その松方幸次郎の専属運転手を、秋蔵氏が担当したのであった。秋蔵氏の精励振りを気に入っていた松方幸次郎は、秋蔵氏が運転した日には必ずチップとして十円紙幣を握らせた。十円といえばいまのお金で約十万円。また、松方幸次郎を新橋あたりの待合(茶屋)に運んだ場合には、待合が運転手にチップを一円出すのが相場だったが、松方幸次郎が超大物ということで秋蔵氏には二円のチップが支払われたという。月給が四十五円で、その他にチップの収入などを合わせると百円以上の収入があり、父母に十五円、自分の生活費に三十円を使うほかはすべて貯蓄に回し、来るべき独立に邁進するのであった。

 この後、川鍋自動車商会設立して独立をはたすまでには、不測の事態に痛めつけられたり、魑魅魍魎に翻弄されて一文無しの悲哀を経験するなど、幾多の試練を経なければならなかった。この続きは次回九月二十五日付第百三十号に委ねる。



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連載特集:日本交通の栄光と挫折・川鍋一朗研究 No.3

後世に徳を残す。では、前世と現世は?
社長就任の翌春には六本木ヒルズ族入り

【タクシージャパン No.128号(09.8.25日号)より転載】

前回は、川鍋一朗氏が二〇〇〇年に日本交通入りする以前から資産や子会社を売却して、債務圧縮が進められてきたことに言及した。

本稿では、入社する以前に、氏はすでにそのことを察知していて、「不調の予兆を」感じていたこと。そして氏は、「一千九百億円の債務がある会社を、経営改革を断行して利益の上がる会社にした」との文脈で、一般マスコミに数多く露出してきた。しかし、それは事実に反すること。氏が、「利益の上がる会社にした」のではなく、「利益の上がる会社に」氏が入ったのが実態であったことを明らかにしたい。
筆者はなぜ、そのことにこだわるのか。それは、氏が会社入りして、「利益の上がる会社にした」ことと「利益の上がっている会社に」氏が入社したというのでは、氏の経営者としての評価が大きく異なるからに他ならない。

それはともかく、故達朗氏の時代に惹起したバブル投資の失敗による膨大な債務を抱えてなお、日本交通が消滅せずに存続し得たのは、ハイヤー・タクシーという本業での強固な地盤が確立されていたからではなかったか。ひるがえって創業者故秋蔵氏の功績、遺徳あっての今日の氏であり、日本交通といえよう。(文責=高橋正信)


●非常にコンサバティブ
 それは、日本交通入りする前年の一九九九年であった。川鍋一朗氏が勤務している経営コンサルタント会社であるマッキンゼーの先輩から、一枚の新聞記事を見せられた。内容は、野村証券グループが出資する投資ファンドのJAFCOを使って、日本交通の関連会社をMBO(マネジメント・バイ・アウト)する、というものだった。MBOとは、企業の合併・買収(M&A)手法の一つで、商権や従業員の雇用を守り、企業が子会社を手放すときに活用する手法である。

 氏はこの新聞記事を見て、「うちの会社は非常にコンサバティブ(保守的)なので、よほどのピンチにならないとそんなことはしない」とピンときた。不調の予兆を感じた瞬間だった。同時に、経営変革への気分も沸いて日本交通入りするのか、しないのかで逡巡するのだが、結局、氏は日本交通入りするのだった。

 「いつか日本交通の社長になると思っていた。というか、そう思い込まされる雰囲気が作られていた。他に興味が行くこともなく、ビジネススクールやマッキンゼーに行ったのも、日本交通に入るためだった」

 あるインタビューでそう振り返っている。一方、本連載企画第一回では、「コ
ンサルタントとして生計を立てられるとは思えず」に日本交通入りしたと紹介した。この二つのコメントは矛盾する。が、しかし、そこには、二十九歳の青年の揺れる思いが見て取れる。

●入社の二年前から黒字

 
いよいよ本題に入る。
 氏が日本交通入りしたのが二〇〇〇年。その時期に充当するのは、第八四期決算(一九九九年六月~二〇〇〇年五月期)である。結果は、売上三百七十二億七千五百万円で経常利益一億五千五百万円、当期利益も同額で黒字を計上していた。氏は、この期の途中に入社し、しかも「一年間、完全に干された」状態。当然、決算に影響、関与していない。

そして、日本交通単体の経営収支が赤字から黒字に転化したのは、氏が入社する前年の第八十三期(一九九八年六月~一九九九五月期)に端を発しているのである。氏が入社する二年前から日本交通は、バブル投資のツケを特別損失として計上しながらも、単体の決算で黒字に転化させている。
 そして第八十五期(二〇〇〇年六月~二〇〇一年五月期)は、氏が日交マイクルの事業を開始した二〇〇〇年七月と時を同じくしている。日交マイクルは、毎月一千万円の赤字を垂れ流していくのだが、この期の決算では当期利益一億九千八百八十九万円を計上している。

 さらにメインバンクから債務返済計画を突きつけられた(二〇〇一年七月)第八十六期(二〇〇一年六月~二〇〇二年五月期)でも、当期利益三千六百万円を確保している。第八十七期(二〇〇二年六月~二〇〇三年五月期)の当期利益は四千四百六十九万円。結局、採算割れを続けて立ち上がらないままの事業として、日交マイクルを日本交通本体に吸収させた第八十八期(二〇〇三年六月~二〇〇四年五月期)の当期利益は、三億九千七百十六万円である。

 その翌年の二〇〇五年八月に氏は日本交通の社長に就任するのである。その第八十九期(二〇〇四年六月~二〇〇五年五月期)の決算内容につき氏は、「税引き前で十一億円の利益を計上できた」と胸を張ってコメントしている。(当期利益は五億八千七百十六万円)

 上記のとおり、日本交通は一九九八年六月から黒字を継続している。その途中には、本欄第一回で「ベンチャー企業の社長だったら十回は首になっています」と、氏が述懐した日交マイクルの数億円の累積赤字が処理されてなお、黒字を確保し続けているのである。

●百人のリストラ
 第八十六期(二〇〇一年六月~)にメインバンクから突きつけられた債務返済計画を遂行する中で、百人の役職・管理者を馘首した。その当時のことを氏は次のように語る。

 「私がやるしかないと覚悟して、リストラをしました。百人リストラしたうち、五十人は私自身が面接して首を切りました。でもリーダーの心構えとして、やらざるを得ないし、やるしかありませんでした。年収五百万円程度で二十年以上働いた人が職を失うのは、年収二千万円の人の給与を一千万円にするのとは重みが違います。個人個人のことを考えたら、体が持ちません。とにかく一生懸命やってきた」

 確かに日本交通を生活の基盤として、長年働いてきた役職・管理者を馘首するのは、心情として忍びないことであったろうことは、想像に難くない。が、しかし、それ以上に馘首される側はより深刻であったろう。当時を知る元管理職のA氏は、「当時の社内の空気はぴりぴりしていて、殺気立っていた感じです。ある幹部の送別会の席上で、酔ったその送別される方が、出席していた川鍋一朗氏に面と向かって罵声を浴びせかけたのを見たことがある。それは強烈な罵詈雑言であった」と語っていた。

 氏が、「個人個人のことを考えたら体が持ちません」というのは実感であろうし、日本交通が生き残れるかどうかの正念場であり、修羅場であったといえる。

 とはいえ、氏がいう百人のリストラは、百人×年収五百万円=年間五億円の経費削減効果を生む。これは直接経費といえ、その他の経費を総合するとさらに削減効果は増大すると考えられる。社長就任後の決算で「税引き後で十一億円の利益を・・・」と胸を張ってコメントしている過半の利益は、百人に及ぶ馘首された血の犠牲によって計上されたものであることを、忘れてはいけない。

 さらにいえば、馘首された百人の役職・管理者にしてみれば、日交マイクルの失敗による数億円の損失を惹起した氏こそ、百人の役職・管理者をリストラする前に馘首されるべきだと言いたいであろう。そうはならずに氏が、日本交通の社長として存在し得たのは、とりもなおさず氏が創業者故秋蔵氏の孫であったこと以外に、その理由は見当たらない。

●六本木ヒルズ族入り
二〇〇五年は氏にとって特別の年となった。
前年に日交マイクルを本体に経営統合し、一般ハイヤー・タクシー部門に吸収した。そして二〇〇五年には、前述したように日交総本社やグリーンクラブを法的整理している。この年に氏は、バブル期の負の遺産の処理終結を宣言している。同時に四月には、東洋交通を皮切りに他資本との業務提携を開始し、矢継ぎ早に提携先を拡大していくのであった。資産、子会社の売り尽くし清算、百人に及ぶリストラなどネガティブ要因の処理を終えたことで、いわば反転攻勢に打って出ようとしたことが見て取れる。

この時に打ち出したのが提携会社十社、グループ全体でタクシー五千台保有をめざす五か年構想であり、エクセレントカンパニー(超優良企業)宣言であった。その狙いは、ズバリ業界をリードする盟主の地位に、復権を果たすことに他ならない。

そして八月三十日に氏は、日本交通の第三代社長に就任する。氏に社長を譲った父親の故達朗氏は、それを見届けるように翌三十一日未明、下咽頭がんで死去。享年六十七歳だった。父親について氏は、「経営者としては、先代の路線を引き継ぎ、グループの拡張を続け、不動産などにも投資をしていくことになる。それが会社の危機を引き起こすことにつながるのだが、バブルという時代背景のことを考えれば、一概に責めることはできない」と自著でかばっている。一方で入社当時を振り返って、「こんな会社に誰がした。最終的には父親に責任がある、と思った」と正直な心情も公にしたことがあった。

それはともかく、心機一転、住まいを都内港区の高級賃貸マンションのアークタワーズから、六本木ヒルズレジデンスD棟に移転することにして、翌春に晴れてヒルズ族の仲間入りをしている。

●シャゼ・シャクン

氏は社長就任に伴って、会社の社是・社訓を策定している。

 社是「徳を残そう」
 桜にN、日本交通に集う私達は、誇りを持って働き、高い業績を上げ、物心両面の幸せを実現して更に誇りを持って働き、以って仕事を通して後世に「徳」を残すことを、その経営理念といたします。

 社訓「エクセレントカンパニー宣言」
一、 エクセレントカンパニー、品格の高い超優良企業を目指します。
一、 お客様第一主義を貫き、安全・遵法・品質・環境を究めます。
一、 正しいやり方で、長期的に、利益の絶対額を最大化します。
一、 日交のプライドを胸に、全員一丸となって横綱相撲で勝負します。
一、 桜にN、圧倒的なNO.一ブランドとして、リーダーシップを発揮します。

 まず、社是の説明文章を何回も読み返した。ワンセンテンスに「誇りを持って働き」が二回も出てくるのはご愛嬌としても、「徳」という文字の意味は深い。辞書をひも解くと次のように解説してあった。①道をさとった立派な行為②善い行いをする性格、身につけた品性③人を感化する人格の力。めぐみ。神仏の加護④(得の通用字として)利益、もうけ、富―とある。「会社の経営上の方針、主張。または、それを表す言葉」が社是ということであれば、この社是の主張の意味するところは深い。 少なくとも「得」の通用字としての「徳」ではなさそうである。

 社訓のエクセレントカンパニーの意味は、ズバリ超優良企業。それに品格の高さが加わる。この社訓は一言で、「顧客第一主義で品格の高い超優良企業として利益の絶対額の最大化を図り、業界ナンバーワンをめざす」と表現している。少々、欲張りでハイテンションなのは、きっと資産・会社整理、リストラと続いたネガティブ対応から解き放たれたためなのであろう。

●故達朗氏のこと
 氏が言うところのエクセレントカンパニー=超優良企業の具現者は、他ならない創業者故秋蔵氏である。裸一貫で埼玉県宮原村を後にして、一代で日本を代表する日本交通グループを築き上げた。その長男が故達朗氏だ。氏が父故達朗氏を評して、「人間的には優しく、気さくで、すべての人を平等に扱ったそうだ。林専務などは父に怒られた記憶がない」と語っている。

 筆者も故秋蔵氏が死去した後、赤坂の旧本社社長室で社長に就任した故達朗氏に面談する機会を得たときの印象は、ほぼ同じである。威張ったそぶりは微塵も無く、むしろリーディングカンパニーのトップとは思えないほどの物腰の低さ。そして忘れられないのが次の言葉だった。

 「広く意見を聞いて民主的な経営を心がけたい」

 おそらく故秋蔵氏が超ワンマンだったために、その弊害を感じていた反動で、「民主的な経営」という言葉が出たものと、その当時は理解した。この「民主的な経営」も、「ホワイトカラーからの評判はとてもよかったのだが、ちょっとシャイな一面もあって、営業所に顔を出して話しをするようなことはほとんどしなかったから、運転手たちからの人気はいまひとつだった」と氏が振り返っている。

 また、氏が「バブルという時代背景のことを・・・」と故達朗氏の経営責任をかばっているのだが、確かに当時の銀行や銀行と結託した建設業者らの口車は、犯罪行為に近いといえる。だとしても故達朗氏の人の良さがあだになって、これらのバブルに群がる亡者の口車に乗ったのだとしても、その責任は免れられるものではない。結果的にそのツケは氏に払わされることになった。

 イッツ エクセレント それは、創業者故秋蔵氏。




氏が取り組もうとしているのは、故秋蔵氏が築きあげた日本交通王国の再興である。その意味では、二〇〇五年は氏にとって第二次創業に取り組もうとする、その気分の高ぶりと意気込みが鮮明に垣間見える。

次号では、日本交通王国が故秋蔵氏によってどのように事業として立ち上げられ、そして業界内で確固とした地歩を固めていったか、故秋蔵氏の出自からその経緯を振り返る。


わが良き友よ!

かまやつひろし氏のヒット曲で
「・・・女郎屋通いを自慢する、あいつほどではないにしろ・・・」
という「我が良き友よ」という曲の歌詞があります。

すでに「女郎屋」が死語になっていますが、
かくいう筆者も昭和28年生まれで,、
売春防止法が施行されたときは、わずか8歳です。
女郎屋、遊郭などは人生の先輩に話しで聞くか、
物の書で読むぐらいでありました。

当然、女郎屋と遊郭は異なるのでしょうが、
筆者にはその辺のウンチクがありませんので、ご勘弁を。

ところが、九月の某日、
大阪のわが良き友A氏と遊郭に行くことになったのであります。
A氏はすでにこの遊郭に過去2度ほど“登楼”しているとのことでしたが、
行って見てビックリ。
その建物の素晴らしさには、目を見張らされました。


●鯛よし 百番
大阪市西成区山王で、旧飛田遊郭の一角にある、
「鯛よし 百番」の看板のある建物です。
写真で外観を見てもらうだけでも雰囲気がありますが、
中に入ると息を呑むばかりでありました。

そこで、案内パンフレットと見ると、
次のように解説してありました。

「当店は、大正時代初期に遊郭として建造された建物を、
当時のまま今に伝える料理店です。
緋もうせんの敷かれた廊下や緻密な襖絵、
精巧な飾り付けなど大正建築の粋を集めたお部屋の数々が、
皆さまを大正ロマンの世界へ誘います」

なるほど。さすが商売の都であり、
大阪の富と文化の象徴のような建物。
そのままに残っているとは、うれしい限り。

「いまこの建物を作ったら、いくらぐらいかかるものでしょうか?」と聞くと、
一級建築士の資格を有し設計事務所を主宰しているA氏曰く、
「そうですね、今これを立てれば数十億円かかるでしょうね」とのこと。

数十億円という言い方でしたから、
十億円から九十九億円が頭にひらめきました。
九十九億円といわれたとしても素人の筆者は、
「そうでしょうね」と答えたでしょう。

それほど、襖絵一枚、家の造作ひとつひとつ、
手の込んだ、素晴らしいものでありました。


●一番~百番
人生の先輩に聞いた話しです。
昔、遊郭は、大門の入り口に近い遊郭は、
格式が低く、奥に行くほどに格式が上がっていったのだそうです。

そして入り口から一番、二番と番号で呼んでいった。
ですから、この「鯛よし 百番」は、
この界隈で最高に格式が高い遊郭だったことを、
その百番が表しているとのことです。
建物を見るに、素人でもそれと感じさせておりました。

A氏によりますと、この建物は登録文化財に指定はされているのですが、
公的な援助がまるで無いのだそうです。

国の文化財に指定されると、
建物や襖絵などの保存にかかる費用が助成されるのだそうです。
何度も国の文化財に指定してもらおうという話しが持ち上がっては、
ダメになったそうです。
そのためにこの建物で会席料理や鍋もの料理を出して、
その収益で建物を維持、管理してきているとのこと。

それを聞いて、胸にジンとくるものがありました。
で、「今日は、盛大に食べて飲んで帰ろう」と思った次第であります。
とか何とか、勝手な事を申しております。

ここではすき焼き鍋をいただいたのでありますが、
体が温まって気持ちもほころんできますと、
「ここに花魁さんがいたら最高の情緒だな~」
と一人心地でおりました。

A氏も同行した小社の松村カメラマンもお酒でほんのり赤らんだ顔で、
なんだか鼻の下が延びているように見えたのは、
たぶん筆者の錯覚だったと思います。


●遊郭だったのがネック

先ほどの助成金が出ない理由をA氏は次のように説明しました。

・この建物は遊郭だった。男性が女性を相手に遊ぶ、
 今では法律でも許されない行為をする場所であった。
・そのことは、とりもなおさず男尊女卑の時代の遺物で、
 この建物を国民の文化財として保存しようとすると、
 女性の賛成が得られにくい。

 というものでありました。
ですが、筆者が男であるということもあるでしょうが、
あえて申したいのです。


この建物が遊郭であったことは事実で、
国の文化財に指定されない理由は理解できなくは無いですが、
それでもなお、この建物が今日、遊郭や遊郭的に使用されずに
料亭として営業しながら保存されてきていること。

そして、このまま民間の善意によっていては早晩、
維持・管理できなくなって、消えてなくなるのではないでしょうか。

なくなってからあの建物は、文化財だと言っても遅い。

男尊女卑、女性が賛成しない、女性の立場ならそうでしょうが、
しかし、歴史を改ざんするわけにはいきません。
素晴らしいものは素晴らしい、
後世に残すべきものは残していくべきだと思います。

女性の方も一度、ぜひ、この「鯛よし 百番」にお越しください。
見ていただければその、
素晴らしさは理解してもらえるのではないでしょうか。




連載特集:日本交通の栄光と挫折・川鍋一朗研究 No.2

見習いがいきなり飛行機の操縦桿を握る
資産・子会社売り尽くす怒涛の撤退作戦

【タクシージャパン No.127号(09.8.10日号)より転載】


前回は、齢二十九の川鍋一朗氏がコンサルタントから転身し、二〇〇〇年に日本交通入りしたところから稿を起した。

 本稿では、創業者で氏の祖父である故川鍋秋蔵氏により屹立した日本交通王国が、父の故達郎氏の時代に瓦解する。それを氏はどのように受け止めて、行動したのか。その結果、何を失い、何を得たのか。債務総額一千九百億円という数字が一人歩きしているが、実際の債務は、筆者の記憶からもそれを上回る金額だったのではなかったか。そしてその債務は一体、どのように処理されたのか。

氏が「怒涛の日々・・・」と振り返った、債務処理の全貌に迫る。(文責=高橋正信)


●入社後一年七か月
 川鍋一朗氏が日交マイクルをスタートさせて一年。取締役として日本交通入りしてから、一年七か月が経過した二〇〇一年の夏のことである。突然、故達朗社長ら経営幹部ともども、メインバンクに呼び出された。用件は、グループが抱える債務処理の返済計画だった。メインバンクは、故達郎氏ら経営陣に対してかなり強圧的だったといわれ、返済計画への返答に一週間の猶予すら与えなかった。すでにメインバンクの腹は固まっていたのだ。それを察知した故達朗社長は、「致し方ない」、他の役員も「(銀行に)あそこまでいわれたら・・・」と二つ返事で受け入れざるを得なかった。

 これに対して氏は、「まだ、一回目(の会議)なのに・・・」と寝耳に水で驚きを隠せなかったが、すぐにメインバンクが提示した債務返済計画を受け入れる以外に、現経営陣に残された選択肢がないことに気づく。「飛行機の操縦士も副操縦士も、完全にやる気を失って操縦桿から手を離してしまった。これまで後ろで見習いをしていた私が、いきなりそこで操縦桿を握ることになってしまった。どうやって動くのかも良く分からないで・・・」と自嘲ぎみに語る氏にとって、晴天の霹靂、怒涛の日々の幕開けとなるのであった。

●本社ビル売却が基点
 氏の著書「タクシー王子、東京を往く。」(文芸春秋社発行)によると、「一〇〇件以上の不動産や、三〇にも及ぶグループ会社の大半を売却。赤坂の一等地にあった本社自社ビルを売却し、祖父の代から親しんだ麻布の自宅さえ手放した」と記している。

氏のいう怒涛の日々は、都内港区赤坂の一等地にある自社所有の本社ビルを売却すると社内告知した、二〇〇一年八月一日を基点とする。

この本社ビルの写真をご覧いただきたい。隣が、本社ビルの三倍はあろうかというハイヤー営業所と車庫ビルだ。隣のハイヤー営業所ビルも本社ビルと一緒に売却したのである。その売却先が、オリックスであった。オーナーの宮内義彦氏は、時の小泉政権と深くかかわり、総理の諮問機関である総合規制改革会議の議長を務めた人物である。グローバルスタンダード、構造改革を声高に、産業界全般の規制緩和を推進した。同時に自社のオリックスがその規制緩和の先頭に立ち事業拡大を図ったことで、「現代の政商」と揶揄されることとなった。 

タクシー事業も宮内氏らによって、ご多分にもれず二〇〇二年に規制緩和され、業界は超供給過剰と運賃の値下げスパイラルに見舞われ、今日まで色を失い続けるのであった。一方でタクシー業界に追い打ちをかけるように、レンタカーを規制緩和して大々的な事業展開をしていった。日本交通の本社跡地に建設されたオリックスのビルを眺めていると、それらが想起され感慨深いものがある。

●一等地の自宅も売却

さらに都内港区元麻布にあった自宅だ。創業者故秋蔵氏が存命中は、年に一回恒例で都内業界幹部らを一堂に会して、自宅庭園でつつじを見る会が催されてきた。また、外務省を通じた外国の賓客を、日本家屋の良さを知ってもらうために自宅に招いた。そんなことが当たり前のようにできる敷地が、実に五〇〇〇坪の大邸宅であり、日本家屋の粋を極めたものであった。筆者も故秋蔵氏の通夜の折に訪れたことがあったが、門を入って母屋にたどり着くまでに、結構な距離を歩いた記憶と、素晴らしい庭園だったという印象が今も強く残っている。

氏も、「麻布にあった自宅も、ゴルフの会員権も、売れるものは何もかも売るという悲惨な状況に陥った。とても切なかった」と残念がったが、残念がるだけの価値のある邸宅であった。今でもこの界隈の土地は、坪五百万円~八百万円で売りに出されている。敷地が五千坪ということになると、ざっと二百五十億円から四百億円という、とんでもない金額になる。

とはいえこの自宅は、故秋蔵氏の時代にすでに相続税対策として、法人の所有になっていたようだ。一九八三年に亡くなった故秋蔵氏の相続財産が麻布税務署で公示され、取材した時に、その額が想像をはるかに下回る二十数億円ということで、目を疑って何度も告示板を眺めていたことを記憶している。

●これだけあった子会社
その他にもサテライトホテル後楽園と同ヨコハマ。私事だが横浜中華街付近にあったサテライトホテルヨコハマには、家族連れで宿泊したこともあった。ホテルといえば都内品川区・港区芝浦のJR田町駅近くで、一九九六年に総額百四十億円を投じた「特徴ある都市型高品位複合ホテル」としてニューサテライトホテル芝浦を竣工した。このホテルは、バブル期に建設計画が立案されたものであった。現在の林紀孝専務取締役が故達朗社長存命中の秘書課長時代に、このホテル建設計画を取材したことがある。

筆者が、「いまからホテルを建設しても採算が合うはずは無い」と指摘したところ、林氏は、「すでに計画は進行中で止められない。止めた場合、違約金が発生する」とのことだったが、重ねて「違約金が発生してもこれからの赤字を考えると計画を中止すべき」と忠言した。これに林氏は、「そうは言っても違約金が建設総額と同じだけかかるので中止できない」とのことだった。結局、このホテルは赤字を出し続け、竣工四年後の二〇〇〇年に日本航空に譲渡され、「ホテルJALシティ田町」へと衣替えするのだった。

その他に氏が指摘するように、自動車教習所や石油販売、さらにゴルフ場に不動産管理会社や年商百二十億円(二〇〇二年五月期)あったヘリコプター事業など、数え上げたら枚挙に暇がないぐらい、というよりも子会社すべてを売却ないし法的に清算した。
いま、日本交通グループと呼べるのは、別法人で日本交通小田原、同立川、同埼玉のタクシー事業三社と車両運行管理請負業の日交サービス、それにクルマ辺以外の日交データーサービスの計五社のみになった。(東洋交通は二〇〇七年に蔦交通は二〇〇八年にそれぞれ買収して経営傘下に収めている)

●返済は一千三百億円?
前号でも触れたように一千九百億円の債務は、氏が会社入りした一年七か月後の二〇〇一年七月に、メインバンクから提示された債務総額だった。

そして子会社や資産を売却して一千三百億円前後を返済し、そして六百億円前後を法的な特別清算でチャラにしたのである。ここに民間調査機関のニュースリリースの抜粋がある。

「(株)リバティーエステート(旧・(株)日交総本社、品川区八潮三-二-三十四、設立平成十四年五月、資本金六千三百八十万円、小野紘一清算人)は、二〇〇五年十一月三十日開催の株主総会で解散を決議、東京地裁に特別清算手続を申し立て、二〇〇六年一月十日開始決定された。負債は約三百九十七億円。同社はタクシー・ハイヤー大手の日本交通(株)(品川区)及び同グループが所有する不動産管理を目的に昭和五十九年に設立された旧・日交総本社を母体とし、日本交通を主たるテナントとして不動産管理業を展開。バブル期には所有不動産の再開発やホテルの経営など積極的な不動産投資を行った。しかし、バブル崩壊に伴う不動産市況低迷により多額の有利子負債が経営の重荷となり、二〇〇二年五月グループ内で業態の重なる日本交通グループ会社の日交興業(株)、(株)ナベックスと合併し、本社物件などの管理業務に特化する新たな(株)日交総本社として法人化されていた」

旧日交総本社が特別清算手続きを申し立てた二〇〇五年九月九日には、子会社で千葉夷隅ゴルフクラブと那須黒羽ゴルフクラブを運営する株式会社グリーンクラブが、東京地裁に民事再生手続き開始を申請して、保全命令を受けている。負債総額は、債権者三千五百四十四人に対して百二億一千三百万円。民事再生条件が、預託金の九五%カット、残り五%を五年間かけて均等分割払いするという厳しい内容だった。その後、同社は第三者に売却されている。

上記からうかがえるのは、メインバンクから提示された一千九百億円の債務は、もてる資産や子会社を処分しても賄えない債務超過の実態にあり、その部分を法的に処理したということのようだ。

●以前から資産を売却

氏の評価である、「一千九百億円の債務がある会社を、黒タクの導入や専用乗り場を設置して、経営改革を断行、利益の上がる会社にした」という文脈は、少し修正を加えなければならない。即ち、一千九百億円の債務は、氏が会社入りした一年七か月後の二〇〇一年七月時点の数字で、子会社や資産を売却したあと法的な清算、処理を行った金額ということになる。

メインバンクが債務返済計画を提示する以前から、資産売却は進められていた。その額は不明だが、多くの不動産を売却したのは想像に難くない。前述した「ニューサテライトホテル芝浦」もそうだが、その他にも次のような例があった。メインバンクの返済計画が提示される半年も前に、持分比率十二%ある山王パークタワーを三菱地所に売却しているが、売却代金が二百四十億円で持分比率から割り出すと二十八億八千万円になり、有力な資産にも手を加えてきていることが分かる。

「黒タクの導入や専用乗り場を設置して、経営改革を断行」したという。確かに役員や管理職の人員整理を行なったのは事実である。しかし、氏が、「利益の上がる会社にした」というのは事実に反する。にわかに信じられないだろうが、日本交通は氏が会社入りする前からも黒字を続けており、氏が会社入りしたのち、日交マイクルを立ち上げ整理し数億円の赤字を飲み込んで、なお黒字を継続してきたのである。恐るべしは、東京大手四社の底力だ。氏の経営手腕によって「利益の上がる会社にした」のではなく、「利益の上がる会社に氏が入った」に過ぎない。昨年来の大幅な売り上げの減少に見舞われて、ここからが本当の意味で利益の上がる会社にすることができるのか、という意味で氏の手腕が試されている。

「利益の上がる会社」の実態については、すでに紙幅がつきた。詳細を次回に譲りたい。










連載特集:東京・日本交通の栄光と挫折・川鍋一朗研究 No.1

タクシー王子の言動から見えてくるもの
それは、悪戦苦闘する等身大の青年の姿

【タクシージャパン No.126号(09.7.25日号)より転載】




大和自動車交通、日本交通、帝都自動車交通、国際自動車の東京大手四社は、大日本帝国と呼ばれ戦後のタクシー業界をリードしてきた。その四社ともバブル経済崩壊を契機に程度の差こそあれ、急速に過日の面影、面目を喪失していく。

四社の中でも国際自動車と覇を競ってきた日本交通も、ご他聞に漏れず川鍋一朗氏の父親である故達朗氏がホテル業の拡大やビル建設などの不動産投資を中心にバブル渦にはまり、一千九百億円もの債務を作ってしまったのだ。

そして一朗氏は二〇〇〇年に二十九歳の若さで日本交通入りして、今日に至っている。その後の一朗氏の言動を振り返ってみると、巷間で取沙汰されているタクシー王子ともてはやされるイケメン青年実業家、辣腕の経営改革者とは異なる、悪戦苦闘する等身大の一人の青年の姿が浮かび上がってくる。

創業者、故秋蔵氏によって栄華を極めた日本交通王国が、事実上達朗氏の時代に瓦解した。そのあとを受けた一朗氏は、はたして王国再興を果たすことが出来るのか。その可否を日本交通の現在・過去・未来を検証する中で模索したい。(文責=高橋正信)


●コンサルからの転身
川鍋一朗氏は、一九七〇年生まれで今年三十九歳になる。慶応大学経済学部を卒業後、ノースウエスタン大学ケロッグ経営大学院を修了し、MBA(経営学修士)を取得している。ケロッグ・スクールは、ハーバード・スタンフォード・ペンシルベニア・シカゴの各大学のビジネススクールとともに、世界的に高い評価を受けている一つといわれる。
ケロッグ大学院

 一九九七年に帰国後、コンサルタント会社の草分けであるマッキンゼー日本支社に勤務。三年後の二〇〇〇年に日本交通入りしている。日本交通入りするまでの自らについて、氏はあるパネルディスカッションで次のように語っている。

 「私の人生は一九九九年まではほんとうに幸せでした。非常に裕福な家庭に生まれ、MBA取得・マッキンゼー入社と素晴らしい人生が開けると思っていました」

 それが一転して日本交通入りする訳だが、その時の心境について、「マッキンゼーに入って二年半ぐらいたっていて、コンサルタントとしてもいわゆるUp or Out、昇進するかどうかという時期で、Upに行くのもかなりつらいなあと思っていました。自他共に認めるLow performerだったので(笑)。コンサルタントとして生計を立てられるとは思えず」に日本交通入りしたとの心境を明らかにしている。

●日交マイクルの失敗
 二〇〇〇年に日本交通入りした氏の感想は、①会社のバランスシートを見てビックリした。左側の資産部分も大きかったのだけど、右側の負債の方がずっと大きかった②取締役会に出席して、経理部長がその月の数字を淡々と読み上げていた。取締役の一人が本当に眠っていて驚いた③マッキンゼーにいたから、取締役会というのは議論を戦わせてバリューを出す場だと思っていたのだが、コンサルタントとして色んな会社を見てきたが、一番ひどかった―というものであった。

 そこで氏は、取締役会の中で「こんなんではだめだ!」と出席の取締役をヒステリックに叱り飛ばしたために、「お陰で一年間、完全に干された」と振り返る。コンサルタントの本来の任務が経営者、経営陣に対してより良い経営改善策を提示して、その上で指導、教育することにあるとすれば氏が「干された」ということ事態が、コンサル以前の次第であったことがうかがえる。

 そこで氏は、はたと考えた。「(日本交通)本体を変革するのが難しいのなら、自分の血をもった異分子を作ろう」と。これが誕生からわずか四年で消滅する新規許可の子会社「日交マイクル」である。

●仮想現実のプラン
 日交マイクルは、二〇〇〇年七月に事業を開始した。ミニバンを用いた新型会員制ハイヤー、リムジンタクシーで、乗務員を旅行代理店や広告代理店、ホテル関係などの他のサービス業から若い転職者(平均年齢三十四歳)を採用。動くオフィス、会議室というコンセプトで新しいハイヤー・タクシービジネスの構築を目指したものだった。

 氏は、「論理上は完璧なビジネスプランだったのに・・・」と悔やんだが、結果は、ハイヤー・タクシー事業の要諦が何たるかも分からないシロウト経営と揶揄され、三か月たっても半年たっても毎月一千万円単位の赤字を重ね続けた。そして日本交通の最大労組である日交労働組合からも、「赤字経営の系列会社解消」を求められる始末であった。

大手企業から新しいハイヤー・タクシーのビジネスプランを求められたコンサルタントが、それなりに一生懸命に考えてプレゼンしたのはいいが、そこに働く人やマーケットの規模、性格、経営収支などの現場、現実を押さえたプランが欠落していたために、事業として立ち上がらないまま消滅するのである。そして氏自身が奇しくも語っているように日交マイクルは、「仮想現実のビジネスプラン」でしかなかった。

●十回はクビに!
日交マイクルは四年間継続し、最終的には日本交通本体に吸収されて消滅した。スタート当初から毎月一千万円単位の赤字が発生していたということは、累積では数億円の赤字にふくらんでいたと見られる。氏は、「ベンチャー企業の社長だったら十回はクビになっています」と述懐しているが、ベンチャー企業の社長が数億円の累積赤字を計上したら、一回で破産、失脚するのがオチではないか。
それどころか氏は、二〇〇五年に向けて、専務取締役、副社長、社長と日交マイクルの失敗が無かったかのように日本交通本体のトップに登りつめていくのであった。常識ではあり得ない出世といえるのだが、日交マイクルの始末に労組の協力を頼み、そのことが後の経営再建にかかる労組とのパワーバランスに微妙な影を落とす結果となった。今年の春闘時の日本交通本社前での日交労組による、これまでにない街宣活動がそれを如実に物語っている。

日本交通のインターネット上のホームページに、日交マイクルの出自や結末が一切、触れられず消し去られているが、目に見えないところでの負の遺産は厳然として残った。

●日交・サークル?
王子本

唯一、日交マイクルに言及しているのが、昨年五月に発行した「タクシー王子、東京を往く。日本交通・三代目若社長『新人ドライバー日誌』」(川鍋一朗著、文芸春秋社発行、二〇〇八年五月三十日刊)

「アッパークラスのサービスを主体とした日交マイクルを立ち上げる。この試みは時期尚早で失敗でしたが、この挫折をバネに、川鍋は生まれ変わる。理想主義に走りすぎていた自分を反省。泥臭くても、できることからひとつひとつ地道に変えていくことを選択したのだ。日本交通本社に戻り専務となった川鍋は、社内で徐々に受け入れられていく」

社内で干されて日本交通本体の変革が難しいといって、自分の異分子である日交マイクルを作った。それが、数億円の赤字を積み重ねた挙句に本体に吸収してもらった。その後に本体に帰ってきて専務になったからといって、「社内で徐々に受け入れられていく」とは考えにくい。メインバンクの了解や労組の協力、理解がなければ無理とみるのが妥当だろう。

成功体験よりも失敗体験の中にこそ多くの教訓が潜んでいるのだが、その失敗を消し去っては、潜んでいる教訓を習得することが出来ないのではないだろうか。

日交マイクル消滅後も関係者を集めて、毎年一回同窓会という飲み会が開催されてきた。今年も七月四日にJR神田駅前の飲食店で氏の婚約を兼ねた同窓会が催されたという話しを聞くにおよんで、氏が取り組んだ日交マイクルは時期尚早な試みでも理想主義的に走りすぎた取り組みでもなく、単なるサークル活動的な意味合いでしかなかったのではないか、とさえ思えてくるのである。

●一千九百億円は返済?

この一千九百億円の債務について取材を進める中で氏は、一度も返済が終了したなどと言っていないのであった。カンブリア宮殿(テレビ東京)など一般マスコミに多く露出しているのだが、一千九百億円の債務があたかも返済されたかのように言っているのは、マスコミの中のキャスターや司会者に過ぎない。概ね氏を紹介するのは、「一千九百億円の債務がある会社を、黒タクの導入や専用乗り場を設置して経営改革を断行、利益の上がる会社にした」という文脈なのだ。

確かに社長就任後に単年度の黒字は計上しているが、債務が返済されたとの話は聞いていない。むしろ銀行周辺筋の情報として、自前の年金基金の不足金とあわせた負債総額は数百億円の規模で存在しているといわれている。実際に氏によって一千九百億円の債務が返済されたのかどうか、それを知るよすがが本紙連載企画を始める契機となった。

前述の「タクシー王子、東京を往く。」には、次のような記述がある。
「一千九百億円の負債に対する銀行側のプレッシャーは、待ったなしのところまできていた。二代目社長である父親・達朗に代わり、一朗は銀行側とタフな交渉を続けると同時にリストラを敢行。百件以上の不動産や三十にも及ぶグループ会社の大半を売却。赤坂の一等地にあった本社自社ビルを売却し大井埠頭の倉庫街に移転させ、採算の悪い営業所を統廃合。百人近いリストラを断行し、祖父の代から親しんだ麻布の自宅さえ手放した。一時、周囲からは『もう会社の所有権はあきらめたほうがいい』と言われたこともあったが、リストラと業務改善が徐々に実を結び、二〇〇三年からは売り上げも回復を見せ始める。そして、ようやく危機を乗り切った二〇〇五年、川鍋一朗は業界最年少で社長に就任した」

 ここでも一千九百億円を返済したかのように思わせてはいるが、返済の事実の記述はない。本紙の取材結果は次のとおりである。

●法的清算による再生
 今日の日本交通は、一千九百億円の一部を資産売却で返済し、一部を法的清算で処理した上で再スタートを切ったものというのが経緯である。つまり子会社や不動産などの資産売却では、債務の返済を賄えなかったのが実態だ。本紙で知り得た範囲での法的清算額は約五百億円。銀行周辺筋からは約六百億円の情報が入っており約百億円の差額がある。いずれにしてもこの法的清算は、メインバンクを中心に不特定多数の債権者にまで大きな被害が及んでいったのであった。

 そして「二〇〇三年からは売り上げも回復」と言っているが、二〇〇三年六月~二〇〇四年月期は確かに売り上げが七期ぶりに増加しているが、わずかに〇・三%増。そして五億二千三百万円の経常利益を計上しているのだが、二十億四千九百万円の繰越損失を抱えたままであった。

 さらに「ようやく危機を乗り切った二〇〇五年」とあるが、二〇〇五年という年は、前年に旧株式会社日交総本社が申し立てた特別清算開始手続きが東京地裁によって決定されたのである。その時の負債額は三百九十七億円。これは、危機を乗り切ったのではなく、メインバンクから提示された債務返済スキームが一区切り付いたことを意味している。言い換えればアメリカのビッグスリーのGMを想起してもらえば分かりやすいだろう。一旦、旧(株)日交総本社を破綻させて、その後に不動産等資産の無いハイヤー・タクシー事業のみで再生を果たそうということである。そのことのメドがついたのが二〇〇五年という年であった。

蛇足ながら「川鍋一朗は業界最年少で社長に就任」とあるが、その時の氏は三十五歳であり、二十歳台でタクシー会社の社長に就任した例は枚挙に暇が無いくらいで、業界最年少は錯誤である。

 それはともかく氏は、メインバンクの立案した債務返済計画に沿って行動したのに過ぎないのであって、「一朗は銀行側とタフな交渉を続ける」などとメインバンクと対等の立場で債務返済計画を主体的に立案、作成できる状況に無かったのは想像に難くない。さらに債務総額を一千九百億円としていることにいささか首を傾げざるを得ない。筆者のおぼろげながらではあるが、債務総額は二千五百億円からピーク時には二千七百億円なでに膨れ上がっていたのではないかと記憶している。一千九百億円というのは、氏が日本交通入りした一年八か月後にメインバンクから提示された再建計画書にある数字ではなかったか。この時点での不動産や子会社を売却して返済する金額ではなかったか。

この債務返済にまつわる諸事情については次回、詳述する。








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