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おもしろくてお役にたつタクシー専門情報紙

T君の道草

毎月10日・25日発行

タクシー日本新聞社

編集長の道草

連載特集:日本交通の栄光と挫折・川鍋一朗研究 No.5

昭和大恐慌の逆風の中で独立した秋蔵氏
自分は何をすべきかと自問自答の一朗氏

【タクシージャパン No.130号(09.9.25日号)より転載】


前号では、故川鍋秋蔵氏の出自から梁瀬自動車商会入り、そして川崎造船所への移籍。「松方コレクション」で有名な松方幸次郎の社長付運転手に抜擢され、順風満帆で自動車人生の船出を切ったところを振り返った。

今号は、人生いろいろ、男もいろいろで、お決まりの人生の落とし穴にはまる波乱万丈があり、結局、苦節十年の運転手稼業を経て、いよいよ独立へ踏み出すところに触れる。
そして川鍋自動車商会を設立。と、ここでまたまた、難儀が降りかかる。時あたかも、昭和四年の世界大恐慌の真っただ中に。百年に一度といわれる世界同時大経済恐慌の今と、状況が酷似。関係資料を読み解いていくと、秋蔵氏とその孫の一朗氏とに、不思議と良く似た時代の背景、身の回りの出来事が。単なる偶然というより、やはり何がしかの縁を感じさせる。

一朗氏が、「創業家」、「三代目」や「家業」と言っているのは、秋蔵氏の孫であり、経営者の継承者という自負からか。いよいよ創業から氏のいう家業としての日本交通が誕生し、日本交通王国の土台が完成するまでを明らかにする。(文責=高橋正信)



●利殖の落とし穴
 日本交通の創業者である川鍋秋蔵氏は、明治三十二年(一八九九年)八月生まれで、生きていれば百十歳ということになる。二十歳で上京し簗瀬自動車商会に入って運転手になり、そして入社してから九年余が経過した昭和三年四月、念願の独立をはたす。一九二八年式ビュイック幌型新車一台を四千円で購入し、都内京橋区木挽町八丁目一番にあったトンボ自動車商会の車庫を借り、当時よく見られた同居営業を開始するのであった。

秋蔵氏は独立資金五千円を確保するのに、九年の歳月を要した。その間に秋蔵氏は、自社の川崎造船所の株を利殖のつもりで少しずつ購入していくのであるが、世界経済の冷え込みに事実上、株券が紙くず同然の憂き目を見る。さらに貴族院議員をしていたという人物の事業に全貯蓄を投じ、これまた事実上の詐欺にあって文無しに。そこに追い討ちをかけるように大正十二年(一九二三年)九月一日に関東大震災に見舞われ、住まいを失いホームレスの憂き目も味わうのだった。

そこで腐らないのが秋蔵氏だった。従来以上にストイックに貯蓄に精励するとともに、投資・投機には一切手を染めずに、貯金は郵便局一本に絞った。失敗から多くの教訓を学び取り、更に自らを厳しく律して、独立に向けて邁進した。独立の時、秋蔵氏は二十九歳。川鍋一朗氏が日本交通入りしたのも二十九歳。奇しくも同年齢だった。

●川鍋自動車商会設立
翌昭和四年六月に川鍋自動車商会を設立して、同居営業に終止符を打った。この時、すでに営業車は五台になっていた。内訳は、秋蔵氏所有が二台、中村福次郎氏が一台、柳沢直治氏が二台。従業員は運転手五人、事務員と助手を含めて総勢十一人の陣容であった。間もなく中村・柳沢両氏からクルマを買収して、オーナー社長となった。

順風満帆な船出に見えるが、川鍋自動車商会を設立した一か月後に緊縮財政政策を採用する浜口雄幸内閣が誕生し、その三か月後にはアメリカのウォール街で株式の大暴落が起こり、歴史上最大の世界的な大恐慌が起こったのであった。その結果、木挽町界隈の歓楽街は火が消えたようになり、多くの会社が倒産し街に失業者があふれ、当然、ハイヤー利用は激減し同業他社がバタバタと廃業していった。そんな逆風というより突風の吹きすさぶ中で、創業の辛酸を舐めるのであった。

奇しくも昨年九月には、リーマンショックによる世界同時大恐慌が発生し、街には、派遣契約を切られた失業者があふれ、ハイヤー・タクシー需要は大幅な落ち込みをみせている。今世紀最大の大恐慌を秋蔵氏は創業時に遭遇し、百年に一度といわれる金融大恐慌を一朗氏は、日本交通入りした九年目の会社再生途上に出くわしたのである。なにやら因縁浅からず、である。

●小型車戦略が奏功
その時、廃業の危機に直面して、秋蔵氏は考えに考えた。
「これから先は、もう高級車はいらない。実用的な車でなくては」
そうと決めたら、後は早かった。昭和六年には一台増えて六台あった大型車を全部売り払い、プリムスの小型車十台を新車で購入した。同業他社が、「川鍋はバカなことをする。いまにつぶれる」といわれる中で、初志を貫徹。これが店じまいしていく同業他社とを峻別する、運命の分かれ道になった。

昭和六年には浜口内閣が総辞職し、満州事変勃発などで景気が好転する中で、川鍋自動車商会の小型車は大いに受けて、着実に業績を伸ばしていくのだった。昭和九年には保有台数を十八台。昭和十一年には、帝国タクシーと有楽タクシー二社を買収するまでになっていた。

その後、戦時体制に入っていく中で事業基盤を拡大し、確固のものにしていく。昭和十二年には朝日ツーリング、橘自動車商会と川鍋自動車商会の三社で東宝自動車を設立。翌年社名を日東自動車に変更し、同時に朝日ツーリング、橘自動車商会、虎屋自動車商会、出雲自動車、日吉自動車商会、松葉自動車商会の六社を吸収併合するのだった。そして一大転機は、第二次世界大戦が勃発した翌年の昭和十五年だ。戦時体制化の中で、政府は保有三十台以上の事業者を認めない方針が出され、これに呼応するように大量増車と積極的な買収策を平行して、飛躍的な規模を拡大するのである。更に従来のハイヤー営業に加えて、タクシー営業を開始した。昭和十八年には認可台数が四百十台までになっていた。昭和十九年には都内のハイヤー・タクシー車両四千五百台を、各千台ずつ四社に統合する東京都内旅客自動車運送事業統合要綱が発表され、秋蔵氏は統合の新会社設立に着手するのである。

●終生の恩人・五島慶太

昭和二十年七月には十二社による共同経営が開始され、八月十五日に終戦。そして十一月三十日に共同経営を終了。さらに十二月一日に認可台数千五百二十二台、戦禍で実働できた車両数は百三十台であったが、日本自動車交通を設立して統合を完了するのであった。(十二月二十九日には日本交通に社名を変更) その時、東急電鉄の故五島慶太社長が秋蔵氏に資本譲渡したのが、秋蔵氏をして日本交通のオーナーあらしめる契機となった。

というのが、共同経営の十二社のうち、大半が東急電鉄の五島慶太氏が実質的に支配、経営している東京タクシーに株式を譲渡してしまい、秋蔵氏も半分の株を譲渡していた状況にあった。そして日本自動車交通を設立する際に資本の集中排除法が出来たことで、「五島は、『これは君にあげよう』と言って、日本自動車交通の東京タクシー側の持ち株を全部彼一人に譲ってくれた」(「くるま人生川鍋秋蔵」小田嶽夫著より)

 そのことで日本交通の実質支配者の地位に。秋蔵氏四十六歳であった。秋蔵氏が、五島を終生の恩人として敬愛し続けたのはいうまでもない。

●日本交通王国への道
昭和二十年十二月二十九日に日本自動車交通から社名変更し、日本交通に。翌昭和二十一年一月一日には天皇の人間宣言がなされ、その十日後には早くも営業開始届を提出している。まだ、戦後の混乱の真っ只中で、秋蔵氏は日本交通として事業に邁進するのだった。

昭和二十二年には、自動車行政が内務省から運輸省に移管されたほか、タクシーのメーター制が復活し、道路交通法が十一月に、道路運送法が十二月にそれぞれ公布され、翌年に施行されている。そして二十二年五月三日に新憲法が施行されているが、その二か月後に秋蔵氏は、故郷の母校になるさいたま市の宮原小学校に豪勢かつ律儀にも、プールを寄贈しているのだった。秋蔵氏の実業家としての成功ぶりをうかがわせるものである。

それからは破竹の勢いで事業規模の拡大と充実に取り組み、戦後数年で事業基盤を固めたことが分かる。それは、昭和二十五年に秋蔵氏は単身アメリカに渡り自動車産業の有り様を視察し、ハイヤー業の衰退と無線タクシーの普及など、先駆的な取り組みを他社に率先するのだった。この渡米記を元に秋蔵氏は、自伝「流れる銀星」(著者川鍋秋蔵、発行所交友社、定価百円、昭和二十六年十二月二十日印刷)をモノするのである。そして日本交通創業十五年目になる昭和三十六年には、ハイヤー・タクシー千四百台で都内シェアの約一割を占めるとともにバス五百台の規模に達し、日本最大規模のハイヤー・タクシー事業者にのし上がっている。一朗氏が復活を宣言しているエクセレントカンパニーの土台が、すでにこの時点で構築されているのだった。

●未完の反省
秋蔵氏は「流れる銀星」の締めくくりに、次のような一文を寄せている。

「わたしの戦後における基礎工事は、まずまず円滑に完成していった。いまわたしの頭の中には一つの征服感に対する喜びと、感激がうずいている。そしてこれは人間として、事業家としての未完成なるものへの征服でもあった。あのすべての廃墟の、敗戦の痛手の中で、だれがこのように復興すると予言しえたであろうか。自分自身への征服、自分自身を理想どおりに統御することのできる人間になることが、事業家としての最高の要素であるとわたしはいいたい」

秋蔵氏、五十二歳。脂の乗り切った自信に満ち溢れた文章をしたため、その上で七項目の「わたしの信条」を示している。その七項目のうち三項目を次に紹介する。

・人間の進歩には限度がない。自分の能力を過少評価して、行きづまるべきではない。こういった考え方をつきつめると、自分の能力を過大評価して失敗するのと同じである。

・エライとか、できるとかいわれる人は多いが、わたしはこの言葉に疑問を持っている。だれがエライ、あるいはできるといっているか、そこには問題がある。その人間の周囲にいる大衆が認めているのでなくては、本当のエラサではないと思う。

・職場で、なくてはならぬ人間になりたい。地位とか報酬はそれにおのずと付随するものである。金を儲けようという意識があっては、事業は成功しない。事業を手堅く発展させようと努力していると、金もそれにともなうものである。金もうけ根性は人間を小さくさせる。そして事業をも小さくさせるものである。

●自分は何をすべきか?

一朗氏が「タクシー王子、東京を往く」を執筆した三十七歳の時の記述がこれだ。
 「いま私は三十七歳。少なくとも父親が亡くなった六十七歳までは社長を務めるとして、あと三十年。その三十年間、長期的、持続的な成長を遂げるために、いま自分は何をすべきか?」と問い、「次の三十年を見据え、三代目の自分に、いま一番必要なものはなにか? それはおそらく、現場感覚。ハンドルを握った最前線での経験だろう」と結論付けて、「いまこそ、タクシーに乗ろう」と宣言していた。

  「私はなぜタクシーに乗るのか」の項で、「オーナー経営者の先輩から『オマエ乗らないの?』っていわれて・・・」と述懐している。社内情報では、一朗氏にタクシー乗務を勧めたのは、エムケイのオーナーである青木定雄氏であったという。一朗氏と青木定雄氏の接点は、東京エムケイの社長を務める次男・政明氏との交友関係に端を発している。政明氏とは経営セミナーへ共に講師として出席する機会があって親密になっていった。東京エムケイ、日本交通、両社の明け番集会に出席しあうほどであった。


エムケイの青木氏に勧められてタクシーに乗ったことをウンヌンするつもりはさらさらない。ウンヌンしたいのは、タクシー会社の社長がタクシー乗務をすることを特別のことと受け止めていることだ。そのことは、たった一か月間乗務しただけで一冊の本を作成していることと、その内容を読むと明らかだ。全国でも千台以上を保有している大手でも、タクシー乗務を経験している経営者は枚挙に暇がないくらいいる。もちろん一か月間などという短期間の向きは皆無だ。それとも、自分は特別な存在とでも思っているのだろうか。起業するまでの十年間、ハンドルを握り続けた創業者の秋蔵氏に対する畏敬の念を抱いているのなら、なおさらであろう。

●俺の正義はこれだ!
秋蔵氏は逆風をバネに事業を拡大してきた。一朗氏も逆風の真っ只中にいる。これをバネに事業の継続、発展ができるのか。一朗氏は自著で、「私の心の拠り所になったのが、家族、中でも母親の存在だった。日本交通の川鍋家の奥さんである母の生活を守る。<俺の正義はこれだ。人間として、それは決して間違っていない>」と記している。

氏の母方の祖母の故広瀬櫻子さんは、藤山コンツェルンの創始者である故藤山雷太氏の次女として、明治四十三年に生まれている。昭和十年に実業家の広瀬次郎氏と結婚して、一朗氏の母親である為宇さんが誕生する。氏は、「もし母がいなかったら、あの怒涛の日々は乗り切れなかった」と述懐。氏は父方を「“公”の部分を形作っている」と表現し、母方の家系を「“私”の部分で、私の人間形成に大きな影響を与えている」としている。創業者秋蔵氏に無く、一朗氏に持って生まれて備わっているもの。

それは何か? 

一朗氏にも強い味方になる日本の支配層に食い込んでいる、華麗なる閨閥なのである。この閨閥は水面下の見えない部分で、一朗氏を下支えしているようにもみえる。
次回、十月十日付第百三十一号で詳細を明らかにする。



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田中一村に出会う旅PART3

★台風18号接近
10月5日午前8時。羽田空港JAL出発ロビー4番時計下に、本紙のカメラマンM君と友人のK氏、そしてK氏の長男氏、筆者の計4名が集合しました。8時30分発奄美大島空港行きJAL1953便に搭乗するために。が、しかし、時あたかも台風18号が奄美大島に向かって北上中で、帰京予定の明6日夜の便が欠航するのではと、ギリギリまで予定通り出発するか、キャンセルするかで悩みました。

 M君は、「これは中止だな」と思って集合場所に来たようですが、K氏は、「行きましょう。帰れなかったら、それはその時です」とキッパリ。筆者から、「帰京出来なければ7日の予定に影響しますが・・・」と切り出したところ、「わたしがいなくても仕事が回るようになっていますし、そうするようにしてきております。問題ありません」と。社員数十名を抱える会社の社長を務めるK氏からそう言われれば、もう行かない手はありません。

 出発、進行!
 奄美大島空港に定刻10時55分着。天候は、我々を歓迎してくれていないかのように土砂降り。傘をさしても役に立たないぐらいです。クルマから出て5メートル歩くだけでビッショリ。参ったな~、でありました。迎えのワゴン車でレンタカー会社へ。そこで小型車をチョイスしたのですが、大人4人でメタボ系が3人、さらに荷物が満載。これはもう正直、窮屈です。少し大きなクルマにした方が良かった、と思ったのではありますが、後の祭り。

 旅の目的は、孤高の画家・田中一村の美術館を訪問することにありました。その前にばしゃ山のレストランにて昼食。メニューはもちろん全員、名物の鶏飯。レストランから窓外に広がる、土砂降りの中のコバルトブルーの海水が目に鮮やかだ。台風の影響か、波は沖合い数百メートルのさんご礁に衝突し、しぶきを上げている反面、砂浜へは波がこない。動と静のコントラストがいつまで見ていて飽きない。







★2年6か月ぶり
 奄美訪問は今回で3回目。前回が平成19年4月だったので、2年6か月ぶりとなりました。ちなみに最初は平成17年の12月でしたので、2年ローテーションということになりました。

我が人生の先生、心の師匠である(自分勝手にそう決め込んでいるのですが)田中一村に出会って、変わらぬ師の教示を素直に受け止められる自分がここにいるのか、一抹の不安がありましたが、すぐにそれは払拭されました。

そのきっかけは、前回の訪問時に閉鎖していたパーク内のレストランと一村美術館の中の喫茶室が、案内係の女性からリニューアルされて営業再開していたのを聞いた時に、何か胸が熱くなるほどうれしく、ホッとしている自分がいることに気づいたためであります。あのままレストランや喫茶室が無く、施設がさびれていき、そのことに連動するように田中一村も人々の関心から遠ざかっていっているのではとの不安があり、同時に自分の中の関心も無くなっていくような心配が胸をよぎっていたのです。

台風が迫っていながらも、我々以外にも何組かの見学者がいたのもうれしい限りでした。美術館では田中一村の40歳~50歳台に描いた屏風、襖絵を特別展示してありました。田中一村は、少年時代の南画、東京芸大に入学し、間もなく退学して千葉で暮らしている時の作品群、そして50歳から移り住んだ奄美大島の時代の、大きく分けてこの3つの作品群があります。

筆者は、これまで一村の少年時代、千葉時代にあまり関心が無く、奄美時代の作品に強くひかれていたのですが(今もひかれています)、今回改めて、少年時代や千葉時代の作品を見て、その中に奄美時代の鮮烈な色彩や生命力のようなものの片鱗を感じました。そのことが今回、奄美を訪問しての収穫となりました。




★新境地を開拓
田中一村は50歳で奄美大島に渡り、69歳で亡くなるまで19年間を暮らしております。筆者は、49歳で25年間勤めた前職の業界専門紙トラモンドを退社し、50歳で本紙を創刊しました。50歳というのは一つの人生の岐路なのかもしれません。

そして現在56歳。奄美時代の代表作である「崖の上のアカショウビン」や「花と鳥」「ビロウ樹」などの作品をものにした年齢と、同じといえます。いわば、田中一村の画家人生の集大成の作品群が、この年代に並んでいます。これまでの経験・知識・技術のすべてを土台にして、自分とは、田中一村という画家とは、何者なのか、を問い続けた答えを見出している。そこに田中一村がたどり着いた田中一村だけの新境地を感じることができます。




ひるがえって筆者が歩んできた32年に及ぶ経験・知識・技術のすべてを元にして、業界紙人生の集大成といえる何かが、果たしてあるのか。そう自問自答してみて、ただビジネス=お金にかかわり右往左往してきたことに、空虚感を禁じえないものがあります。32年間も業界紙に関わってきて「業界紙記者としての自分とは何者なのか」と自問する中で、「連載特集 日本交通の栄光と挫折・川鍋一朗研究」にチャレンジしてみようと思い至った次第であります。

どこまで自分の思いが果たせたかは忸怩たるものがありますが、目指そうとした方向性は間違っていなかったと思っております。連載特集の対象になった川鍋一朗氏には何の恨み、つらみも無く、まことに持って氏には迷惑な話で申し訳ないと思っておりますが、日本一のハイヤー・タクシー会社を自認、標榜している有名税としてご勘弁ください。

閑話休題

田中一村の絵を凝視していくと見えてくるものがあります。それは、命の輝きや喜び、そして生きるとはどういう意味があるのか、を語りかけてくれていることです。連載特集の趣旨は、川鍋一朗氏=日本交通の今を凝視していくと、今までのタクシー業界を牛耳っていた大手四社の支配、これまでの業界秩序の構造が、すでになきもがなであることを明らかにできるだろうというものでありました。戦後64年間一貫してタクシー業界に君臨し続けた大手四社。それが今は名前だけが残って、実態は栄華を誇った過去とは異なったものになってしまっていること。これを明らかにしたいと思っていたのですが、実際は、思いばかりが強くて、いささか空回りだったかもしれません。

ですが今回の田中一村に出会う旅で、これからも失敗を恐れずに自分らしい新境地を開拓していこう、チャレンジしていこうという決意を新たにできたのは、もう一つの収穫となりました。

★黒糖焼酎・里の曙



 奄美大島の名物は、先述した鶏飯のほかに黒糖焼酎があります。平成17年12月に訪問した時は、里の曙の醸造工場を見学させていただきました。箱に入ってパレットに乗せられた黒糖が、フォークリフトでタンクへ入れられていたことや、その黒糖が倉庫に山と積まれているのに驚いたことを記憶しています。

という訳でお土産は、黒糖焼酎「里の曙」に決まり。奄美大島には多くの黒糖焼酎の醸造メーカーがあります。ですが田中一村の絵のラベルが貼付されているのは里の曙のみで、しかも「奄美の杜」25度720mlの銘柄のビンのみ。

そしてお世話になった奄美市名瀬の前川酒店のご主人に、一番地元で人気の焼酎を聞いてその銘柄と「奄美の杜」の2本セットを友人T氏に送る。「奄美の杜」を本欄にも記述がある都内世田谷区内の博多ラーメン白天さんへ。そして本紙東京事務所にも送った次第であります。

昨年11月以来、酒を断った筆者が焼酎をたくさん購入しているのには、同行の友人K氏も目をパチクリ。「お酒は飲まないのですよね」と聞かれる始末でした。

で、帰京して送られてきた「奄美の杜」を開封して今も見ておりますが、キッと遠くをにらんだ凛々しい「崖の上のアカショウビン」とは趣が異なるのですが、このラベルの絵のアカショウビンといい、植物といい、景色といい、実に心浮き立つ生命力あふれるものでうれしい限りです。思わず断っているお酒を解禁して、乾杯したい気分に誘われます。

★身につまされました
最近のニュースでなんだかつらい思いをさせられたのが、中川昭一元財務大臣の死です。自殺か病死か判明しないようですが、いずれにしても自ら死に向かっていったように感じます。享年56歳。筆者も同じ年齢ということで、なんだか身につまされてしまいました。

酒の上での失敗が、すでに「若気の至り」で済まなくなっていて、そして自分の人生、「こんなはずじゃなかった」と振り返っても詮方なく、「明日があるさ」と強がりをいう気力も萎えてしまい、身の回りや頭の周辺にまとわりついているしがらみや不安から逃れるように、酒に走る、又は、真剣に思いあぐねて、そしていずれも病気になる。病気になって死ぬか、生きていても病気のために精神が弱り、あきらめざるを得ない老境に入る。

人は生まれた時から死ななければならない悲しい存在です。しかし、その悲しい存在であるからこそ、次にどう考えて生きるかが肝心です。人は、悲しい存在だから、すべてを悲観的にとらえ、人を信用できずに何もかも刹那に孤独に生きるのか。または、人は悲しい存在だからこそ、生きている間は、大いに明るく、仲良く、楽しく、笑って、泣いて、そして自分らしい生き方をするのか。

そこの考え方によって、周りにいる人の気持ちやあり様が見えてきて、そして目の前の景色がまったく今までと異なったものに見えるのではないでしょうか。人は悲しいからこそ、精一杯楽しく生きなければなりません。筆者もその精神を忘れないで楽しく過ごしていきたい。そして、できれば少々、人の役やためになって、それから人生を終わりたいとも思っております。

「中年の危機」という言葉があるのですが、中川氏もこの危機を乗り越えられなかったのでしょう。筆者も中年の危機を感じ、その渦中にあってなお、人生の先生、心の師匠である田中一村に導かれて生きていきたいと思う、今日この頃であります。






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