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T君の道草

毎月10日・25日発行

タクシー日本新聞社

編集長の道草

連載特集:東京・日本交通の栄光と挫折・川鍋一朗研究 No.1

タクシー王子の言動から見えてくるもの
それは、悪戦苦闘する等身大の青年の姿

【タクシージャパン No.126号(09.7.25日号)より転載】




大和自動車交通、日本交通、帝都自動車交通、国際自動車の東京大手四社は、大日本帝国と呼ばれ戦後のタクシー業界をリードしてきた。その四社ともバブル経済崩壊を契機に程度の差こそあれ、急速に過日の面影、面目を喪失していく。

四社の中でも国際自動車と覇を競ってきた日本交通も、ご他聞に漏れず川鍋一朗氏の父親である故達朗氏がホテル業の拡大やビル建設などの不動産投資を中心にバブル渦にはまり、一千九百億円もの債務を作ってしまったのだ。

そして一朗氏は二〇〇〇年に二十九歳の若さで日本交通入りして、今日に至っている。その後の一朗氏の言動を振り返ってみると、巷間で取沙汰されているタクシー王子ともてはやされるイケメン青年実業家、辣腕の経営改革者とは異なる、悪戦苦闘する等身大の一人の青年の姿が浮かび上がってくる。

創業者、故秋蔵氏によって栄華を極めた日本交通王国が、事実上達朗氏の時代に瓦解した。そのあとを受けた一朗氏は、はたして王国再興を果たすことが出来るのか。その可否を日本交通の現在・過去・未来を検証する中で模索したい。(文責=高橋正信)


●コンサルからの転身
川鍋一朗氏は、一九七〇年生まれで今年三十九歳になる。慶応大学経済学部を卒業後、ノースウエスタン大学ケロッグ経営大学院を修了し、MBA(経営学修士)を取得している。ケロッグ・スクールは、ハーバード・スタンフォード・ペンシルベニア・シカゴの各大学のビジネススクールとともに、世界的に高い評価を受けている一つといわれる。
ケロッグ大学院

 一九九七年に帰国後、コンサルタント会社の草分けであるマッキンゼー日本支社に勤務。三年後の二〇〇〇年に日本交通入りしている。日本交通入りするまでの自らについて、氏はあるパネルディスカッションで次のように語っている。

 「私の人生は一九九九年まではほんとうに幸せでした。非常に裕福な家庭に生まれ、MBA取得・マッキンゼー入社と素晴らしい人生が開けると思っていました」

 それが一転して日本交通入りする訳だが、その時の心境について、「マッキンゼーに入って二年半ぐらいたっていて、コンサルタントとしてもいわゆるUp or Out、昇進するかどうかという時期で、Upに行くのもかなりつらいなあと思っていました。自他共に認めるLow performerだったので(笑)。コンサルタントとして生計を立てられるとは思えず」に日本交通入りしたとの心境を明らかにしている。

●日交マイクルの失敗
 二〇〇〇年に日本交通入りした氏の感想は、①会社のバランスシートを見てビックリした。左側の資産部分も大きかったのだけど、右側の負債の方がずっと大きかった②取締役会に出席して、経理部長がその月の数字を淡々と読み上げていた。取締役の一人が本当に眠っていて驚いた③マッキンゼーにいたから、取締役会というのは議論を戦わせてバリューを出す場だと思っていたのだが、コンサルタントとして色んな会社を見てきたが、一番ひどかった―というものであった。

 そこで氏は、取締役会の中で「こんなんではだめだ!」と出席の取締役をヒステリックに叱り飛ばしたために、「お陰で一年間、完全に干された」と振り返る。コンサルタントの本来の任務が経営者、経営陣に対してより良い経営改善策を提示して、その上で指導、教育することにあるとすれば氏が「干された」ということ事態が、コンサル以前の次第であったことがうかがえる。

 そこで氏は、はたと考えた。「(日本交通)本体を変革するのが難しいのなら、自分の血をもった異分子を作ろう」と。これが誕生からわずか四年で消滅する新規許可の子会社「日交マイクル」である。

●仮想現実のプラン
 日交マイクルは、二〇〇〇年七月に事業を開始した。ミニバンを用いた新型会員制ハイヤー、リムジンタクシーで、乗務員を旅行代理店や広告代理店、ホテル関係などの他のサービス業から若い転職者(平均年齢三十四歳)を採用。動くオフィス、会議室というコンセプトで新しいハイヤー・タクシービジネスの構築を目指したものだった。

 氏は、「論理上は完璧なビジネスプランだったのに・・・」と悔やんだが、結果は、ハイヤー・タクシー事業の要諦が何たるかも分からないシロウト経営と揶揄され、三か月たっても半年たっても毎月一千万円単位の赤字を重ね続けた。そして日本交通の最大労組である日交労働組合からも、「赤字経営の系列会社解消」を求められる始末であった。

大手企業から新しいハイヤー・タクシーのビジネスプランを求められたコンサルタントが、それなりに一生懸命に考えてプレゼンしたのはいいが、そこに働く人やマーケットの規模、性格、経営収支などの現場、現実を押さえたプランが欠落していたために、事業として立ち上がらないまま消滅するのである。そして氏自身が奇しくも語っているように日交マイクルは、「仮想現実のビジネスプラン」でしかなかった。

●十回はクビに!
日交マイクルは四年間継続し、最終的には日本交通本体に吸収されて消滅した。スタート当初から毎月一千万円単位の赤字が発生していたということは、累積では数億円の赤字にふくらんでいたと見られる。氏は、「ベンチャー企業の社長だったら十回はクビになっています」と述懐しているが、ベンチャー企業の社長が数億円の累積赤字を計上したら、一回で破産、失脚するのがオチではないか。
それどころか氏は、二〇〇五年に向けて、専務取締役、副社長、社長と日交マイクルの失敗が無かったかのように日本交通本体のトップに登りつめていくのであった。常識ではあり得ない出世といえるのだが、日交マイクルの始末に労組の協力を頼み、そのことが後の経営再建にかかる労組とのパワーバランスに微妙な影を落とす結果となった。今年の春闘時の日本交通本社前での日交労組による、これまでにない街宣活動がそれを如実に物語っている。

日本交通のインターネット上のホームページに、日交マイクルの出自や結末が一切、触れられず消し去られているが、目に見えないところでの負の遺産は厳然として残った。

●日交・サークル?
王子本

唯一、日交マイクルに言及しているのが、昨年五月に発行した「タクシー王子、東京を往く。日本交通・三代目若社長『新人ドライバー日誌』」(川鍋一朗著、文芸春秋社発行、二〇〇八年五月三十日刊)

「アッパークラスのサービスを主体とした日交マイクルを立ち上げる。この試みは時期尚早で失敗でしたが、この挫折をバネに、川鍋は生まれ変わる。理想主義に走りすぎていた自分を反省。泥臭くても、できることからひとつひとつ地道に変えていくことを選択したのだ。日本交通本社に戻り専務となった川鍋は、社内で徐々に受け入れられていく」

社内で干されて日本交通本体の変革が難しいといって、自分の異分子である日交マイクルを作った。それが、数億円の赤字を積み重ねた挙句に本体に吸収してもらった。その後に本体に帰ってきて専務になったからといって、「社内で徐々に受け入れられていく」とは考えにくい。メインバンクの了解や労組の協力、理解がなければ無理とみるのが妥当だろう。

成功体験よりも失敗体験の中にこそ多くの教訓が潜んでいるのだが、その失敗を消し去っては、潜んでいる教訓を習得することが出来ないのではないだろうか。

日交マイクル消滅後も関係者を集めて、毎年一回同窓会という飲み会が開催されてきた。今年も七月四日にJR神田駅前の飲食店で氏の婚約を兼ねた同窓会が催されたという話しを聞くにおよんで、氏が取り組んだ日交マイクルは時期尚早な試みでも理想主義的に走りすぎた取り組みでもなく、単なるサークル活動的な意味合いでしかなかったのではないか、とさえ思えてくるのである。

●一千九百億円は返済?

この一千九百億円の債務について取材を進める中で氏は、一度も返済が終了したなどと言っていないのであった。カンブリア宮殿(テレビ東京)など一般マスコミに多く露出しているのだが、一千九百億円の債務があたかも返済されたかのように言っているのは、マスコミの中のキャスターや司会者に過ぎない。概ね氏を紹介するのは、「一千九百億円の債務がある会社を、黒タクの導入や専用乗り場を設置して経営改革を断行、利益の上がる会社にした」という文脈なのだ。

確かに社長就任後に単年度の黒字は計上しているが、債務が返済されたとの話は聞いていない。むしろ銀行周辺筋の情報として、自前の年金基金の不足金とあわせた負債総額は数百億円の規模で存在しているといわれている。実際に氏によって一千九百億円の債務が返済されたのかどうか、それを知るよすがが本紙連載企画を始める契機となった。

前述の「タクシー王子、東京を往く。」には、次のような記述がある。
「一千九百億円の負債に対する銀行側のプレッシャーは、待ったなしのところまできていた。二代目社長である父親・達朗に代わり、一朗は銀行側とタフな交渉を続けると同時にリストラを敢行。百件以上の不動産や三十にも及ぶグループ会社の大半を売却。赤坂の一等地にあった本社自社ビルを売却し大井埠頭の倉庫街に移転させ、採算の悪い営業所を統廃合。百人近いリストラを断行し、祖父の代から親しんだ麻布の自宅さえ手放した。一時、周囲からは『もう会社の所有権はあきらめたほうがいい』と言われたこともあったが、リストラと業務改善が徐々に実を結び、二〇〇三年からは売り上げも回復を見せ始める。そして、ようやく危機を乗り切った二〇〇五年、川鍋一朗は業界最年少で社長に就任した」

 ここでも一千九百億円を返済したかのように思わせてはいるが、返済の事実の記述はない。本紙の取材結果は次のとおりである。

●法的清算による再生
 今日の日本交通は、一千九百億円の一部を資産売却で返済し、一部を法的清算で処理した上で再スタートを切ったものというのが経緯である。つまり子会社や不動産などの資産売却では、債務の返済を賄えなかったのが実態だ。本紙で知り得た範囲での法的清算額は約五百億円。銀行周辺筋からは約六百億円の情報が入っており約百億円の差額がある。いずれにしてもこの法的清算は、メインバンクを中心に不特定多数の債権者にまで大きな被害が及んでいったのであった。

 そして「二〇〇三年からは売り上げも回復」と言っているが、二〇〇三年六月~二〇〇四年月期は確かに売り上げが七期ぶりに増加しているが、わずかに〇・三%増。そして五億二千三百万円の経常利益を計上しているのだが、二十億四千九百万円の繰越損失を抱えたままであった。

 さらに「ようやく危機を乗り切った二〇〇五年」とあるが、二〇〇五年という年は、前年に旧株式会社日交総本社が申し立てた特別清算開始手続きが東京地裁によって決定されたのである。その時の負債額は三百九十七億円。これは、危機を乗り切ったのではなく、メインバンクから提示された債務返済スキームが一区切り付いたことを意味している。言い換えればアメリカのビッグスリーのGMを想起してもらえば分かりやすいだろう。一旦、旧(株)日交総本社を破綻させて、その後に不動産等資産の無いハイヤー・タクシー事業のみで再生を果たそうということである。そのことのメドがついたのが二〇〇五年という年であった。

蛇足ながら「川鍋一朗は業界最年少で社長に就任」とあるが、その時の氏は三十五歳であり、二十歳台でタクシー会社の社長に就任した例は枚挙に暇が無いくらいで、業界最年少は錯誤である。

 それはともかく氏は、メインバンクの立案した債務返済計画に沿って行動したのに過ぎないのであって、「一朗は銀行側とタフな交渉を続ける」などとメインバンクと対等の立場で債務返済計画を主体的に立案、作成できる状況に無かったのは想像に難くない。さらに債務総額を一千九百億円としていることにいささか首を傾げざるを得ない。筆者のおぼろげながらではあるが、債務総額は二千五百億円からピーク時には二千七百億円なでに膨れ上がっていたのではないかと記憶している。一千九百億円というのは、氏が日本交通入りした一年八か月後にメインバンクから提示された再建計画書にある数字ではなかったか。この時点での不動産や子会社を売却して返済する金額ではなかったか。

この債務返済にまつわる諸事情については次回、詳述する。








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