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T君の道草

毎月10日・25日発行

タクシー日本新聞社

編集長の道草

連載特集:日本交通の栄光と挫折・川鍋一朗研究 No.4

日本交通王国の創業者はヒヨッコだった
梁瀬自動車の見習い運転手から羽ばたく

【タクシージャパン No.129号(09.9.10日号)より転載】

前回は、川鍋一朗氏が会社入りする二年も前から、会社は黒字を計上していたことを明らかにした。氏が利益の上がる会社にしたのではなく、利益の上がる会社に氏が入ったのであった。その会社の礎は、創業者の秋蔵氏が築き上げたもので、秋蔵氏あっての今日の氏であり日本交通である、と論じた。

また、氏は社長就任後に社訓を策定し、「エクセレントカンパニー宣言」を行なったことも紹介した。氏のいうエクセレントカンパニーの具現者は、他ならぬ秋蔵氏である。換言すれば、敬愛してやまぬ秋蔵氏の築き上げた日本交通王国の再興を、宣言しているのである。

エクセレントカンパニー実現のためには、越えなければならない幾多のハードルがある。その幾多のハードルをクリアー出来た時に初めて、氏がエクセレントな経営者だと評価されるだろう。

そのために克服しなければならないハードルとは何か? それは稿を改めるとして、エクセレントカンパニーの具現者である秋蔵氏とは、いかなる人物だったのかに触れなければならない。本稿では、秋蔵氏の出自から自動車人生の出発点である梁瀬自動車商会に運転手として入社し、いよいよ自動車人生のスタートを切るところまでを振り返る。(文責=高橋正信)


●九人兄弟の五番目
秋蔵氏は、明治三十二年八月に埼玉県宮原村(現さいたま市)にて父川鍋熊太郎、母たよとの間で九人兄弟の五番目として生まれた。父親は徒弟制度の大工修行を済ませたが、大工稼業では収入が少なく、大宮駅近くの機関車や列車をつくる国鉄大宮工機部の工員となった。

酒も飲まず、煙草も嗜まず、真面目一筋の仕事人間で堅物だった父親は、秋蔵氏が学校にあがるころには、職場長になっていた。しかし、職場長とはいえ月給は二十円ぐらいであった。いまの物価水準との単純比較は出来ないが、大体二十五万円前後ぐらいの価値があったのではないかと考えられる。

貧乏の子沢山。これで九人の子供を含めた十一人の大家族を切り盛りしなければならないのは、一苦労である。台所と湯殿を除くと部屋が二つしかなく、小さい子供たちは三人で一つの寝床に固まって寝るような、かやぶき屋根の粗末な住居だった。父親と母親との「克己、倹約がどうしても必要なのであった」と芥川賞作家の小田嶽夫氏が著した「くるま人生 川鍋秋蔵」(一九六二年四月(株)アルプス発行、二百二十二ページ)に詳しい。

 父親は小学校二年まで、母親は「女に読み書きは要らない」という時代で無学だったことから、秋蔵氏には高等小学校(当時は尋常小学六年、高等小学二年)までやってやろうと、母親は睡眠時間を削り、家計を節約し貧乏に耐えながら八年間の教育を受けさせた。母親の人と知れない苦労に気付くと、秋蔵氏は不憫でたまらなくなり、「大きくなったら何とか母を楽にさせてやりたい。立派な瓦屋根の家に住まわせてやりたい」と小さな胸を痛めるのであった。

●ヒヨッコになった!
高等小学校を卒業した秋蔵氏は、父親と同じ国鉄大宮工機部で働くことになった。このころ工機部で働くものは約三千人おり、大宮近在の農家の次男、三男はこぞって工機部に就職するのであった。秋蔵氏も九人兄弟で男四人兄弟の末弟ということもあって、特別の思慮の無いままに工機部に入るのだった。

当時、「工員」という言葉が無く、それに当たる言葉が「職工」であった。これを地元の宮原村の百姓がもじって、「ヒヨッコ」という言葉が出来て、少年職工を茶化してそう呼んだという。

ヒヨッコは、工機部にある付属工業学校(四か年修業)に入り、午前中授業で午後から仕事だったが、「月給をもらいながら勉強が出来る」と両道に大いに励んだ。そして歳月が三年、四年と経過していく中で、秋蔵氏は、①個人の能力と関係なく、学歴というものが絶対の力を持っている。大学の理工科、あるいは工学部を出たものは、経験も浅く、技術も十分でないのに、じきに幹部級にのし上がる②(学歴のないものは)よくいって職場長になるのが関の山。それも五十五歳になれば定年退職しなくてはならない③技能の点でも、頭脳の点でも、勤勉さの点でも、めったに人に引けを取らない自信がある。それだのに登りつめる絶頂が職場長だとあっては幻滅だ―と「立派な技士になって外国に派遣されたい」という入社当時の夢と希望は、次第に崩れていった。

大宮工機部に入って六年目、いよいよヒヨッコが羽ばたき巣立ちの時を迎える。秋蔵氏、二十歳の春だった。

●百二十円を懐に上京
秋蔵氏は、両親から六か月間の生活費としてもらった百二十円を懐に上京。四谷見付付近の知人宅に身を寄せるのだった。最初は東京地図を頼りにあちらこちらを見て歩き、人間の多さや東京の大きさに驚かされた。そして一通り東京の街の知識も頭に入ると、就職活動を開始するのであった。
つてを頼り、人にも会い、会社にも顔を出し、新聞の求人欄に目を皿のようにしてみたりして、就職口を求めたが、高等小学校卒の学歴と年齢(二十歳)がネックでどうにもならなかった。まして国鉄の大宮工機部での経験は、なんの足しにもならなかった。秋蔵氏はあせった。半年分の生活費があるのだから焦らないで就職活動を続ければいいものを、初めて世の中に出て、いきなり壁にぶつかったのだから無理はなかった。

前述の「くるま人生 川鍋秋蔵」によると次のような記述がある。
「彼が日本橋区(中央区)の呉服橋のそばを通りかかると、『梁瀬自動車商会』(梁瀬自動車株式会社の前身)の看板が目についた。大きなガレージがあって、自動車がたくさんおさめられていた。(略)それから彼はつかつかと中へ入り、自動車の掃除をしている運転手らしい男をつかまえ、『運転手になりたいんですが、使っていただけないでしょうか?』と言った」

●自動車の申し子?
あたかもそれは偶然に通りかかったかのような記述になっているが、実際は、秋蔵氏がわざわざ訪問したと考えられる。それは、二十七歳で夭逝した次兄が東京へ出て、自動車の運転手になっていたこと、そして自動車の運転手は俸給が当時としては飛びぬけて良かったことを秋蔵氏は承知していたことによる。

立派な会社に入って、ゆくゆくは実業人になりたいという夢は、「いい会社の社員になれないなら、仕方がない。運転手になってみるのも一つの術か」と気を取り直して軌道修正したのは、自然の成り行きだった。

履歴書・戸籍謄本・学校の卒業証明書など、必要書類を整えて提出した後に、晴れて採用されるのであった。両親には大志を抱いて上京していた関係で、「いつまでも運転手をしようというわけではないのだが、ひとまずここへ落ち着きたい」といって納得してもらう。
それ以上に秋蔵氏が生まれた明治三十二年は、横浜在住のアメリカ人がアメリカ製電気式三輪自動車を持ってきており、日本へ初めて自動車がお目見えした記念すべき年であった。その後の自動車発展史が、そのまま秋蔵氏の自分発展史と軌を一にしていくのを見るにつけ、故秋蔵氏は自動車の申し子であったのだと納得させられる。

秋蔵氏にとっては、「いつまでも運転手をやっているつもりはない。立派な会社に入れないのなら、立派な会社を自分でつくって、そして実業人になる」と心に決するものがあったことを、その後のくるま人生が物語っている。

●六か月で運転手へ

秋蔵氏が梁瀬自動車商会に入社したのは、大正八年。すでに全国で乗用車は五千台を超える普及ぶりを示していた。芝区(現港区)新桜田町の某家に間借りしながら、梁瀬自動車商会に通勤するのだった。当時は、自動車には必ず運転手のほかに助手が乗っていて、運転手は運転だけ、あとはすべて助手がフォローした。そして運転の仕方などは誰も教えてくれないために、見よう見まねで学びとっていかねばならなかった。

秋蔵氏は、呑み込みが早く手も器用だったが、梁瀬自動車商会は六か月が過ぎるまで運転手にさせなかった。それでも他の助手連中に比べては早い方だった。当時の運転手の免状は、至極簡単だったという。ビュイックの車に乗って、皇居前の広場をひと回りして見せれば、検査が終了したとか。ともかく目出度く運転手の仲間入り果たし、くるま人生のスタートを切るのだった。

まだ、自動車が珍しい時代で、自動車を運転する運転手はハイカラな職業として、市井の人々の羨望の的になっていた。当時、上流階級の女性と浮名を流す者やお酒と結婚したような、飲んだくれ者の多い運転手仲間の中で、秋蔵氏は一線を画し、酒も飲まずに仕事に精励したのは言うまでもない。それからわずか二か月で、大きな転機を迎えるのであった。

●川崎造船所へ移籍

神戸に本社を置く川崎造船所東京出張所に、自動車が一台売れた。その時、川崎造船所からの条件が、信用のおける運転手を一人つけてくれるように、というもの。そこで梁瀬自動車商会では、勤務態度良好な秋蔵氏を社に置きたい考えがあったが、上顧客(じょうとくい)の信用を得ることも大切、との判断で秋蔵氏の移籍を決めるのだった。

千代田区にあった日本郵船ビル内の川崎造船所東京出張所へ通う身となった秋蔵氏は、社長付運転手という栄えある役目につくのである。このことが、後年の実業人へのステップアップに計り知れない影響を与えることになるとは、もちろん知る由もなかった。

 秋蔵氏が担当したのは、川崎造船所社長の松方幸次郎である。父親は、明治時代に総理大臣を二度、大蔵大臣を七度務めたのちに元老になった松方正義である。松方幸次郎は正義の十三男六女の第三男であった。東京帝国大学を中退し、アメリカのエール大学、フランスのソルボンヌ大学に学んだ。

 もちろん松方幸次郎は実業家として大を為すのだが、それよりも今日、「松方コレクション」の人として名をはせている。松方コレクションは周知のとおり、ヨーロッパの名だたる絵画や彫刻のほか、日本の江戸時代の浮世絵などの厖大な美術品の蒐集である。上野公園内の「国立西洋美術館」は、今から五十年前に戦後フランス政府によって接収されていた松方コレクションが日本に返還されるのを機に、このコレクションを収蔵するために近代建築の三大巨匠の一人であるフランスの建築家ル・コルビュジェの基本設計により、建設されたものである。

オーギュスト・ロダンの「考える人」やクロード・モネの「睡蓮」、ドラクロワ、クールベ、ミレー、マネ、ルノワール、セザンヌ、ゴッホなどなどの作品群が松方コレクションに名を連ねる。国立西洋美術館の建物が建設後五十年ということを記念して、この美術館を世界遺産にしようというキャンペーンが目下、有識者らで展開されている。

●独立への時宜を得る

秋蔵氏が川崎造船所に移籍したとき、松方幸次郎は五十五歳だった。ちょうど松方コレクションに着手しはじめる頃にあたっていた。松方幸次郎と交流があった美術史家の八代幸雄は、松方幸次郎から直接聞いた話を、次のように文章に残している。

 「自分は第一次の世界大戦のために、自分がやっている川崎造船所が非常に好景気で、私が自由に使える金が三千万円できた。私は、それだけ油絵を買って帰って、日本のために立派なコレクションを作ってやりたい」

当時の三千万円は、いまの金に換算すると約三千億円に充当する、莫大の金額であった。その松方幸次郎の専属運転手を、秋蔵氏が担当したのであった。秋蔵氏の精励振りを気に入っていた松方幸次郎は、秋蔵氏が運転した日には必ずチップとして十円紙幣を握らせた。十円といえばいまのお金で約十万円。また、松方幸次郎を新橋あたりの待合(茶屋)に運んだ場合には、待合が運転手にチップを一円出すのが相場だったが、松方幸次郎が超大物ということで秋蔵氏には二円のチップが支払われたという。月給が四十五円で、その他にチップの収入などを合わせると百円以上の収入があり、父母に十五円、自分の生活費に三十円を使うほかはすべて貯蓄に回し、来るべき独立に邁進するのであった。

 この後、川鍋自動車商会設立して独立をはたすまでには、不測の事態に痛めつけられたり、魑魅魍魎に翻弄されて一文無しの悲哀を経験するなど、幾多の試練を経なければならなかった。この続きは次回九月二十五日付第百三十号に委ねる。



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